通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第3節 函館要塞と津軽要塞
1 日露戦争期の函館要塞

函館要塞の設置

津軽海峡の応急防備

函館要塞の設置   P277−P278

 日清戦争後の明治29(1896)年4月、同28年に制定された「函館港防禦計画ノ要領」が改正され、翌5月には工兵方面函館支署が新設された。同30年には、前記の「防禦計画ノ要領」が修正追加され、工兵方面の廃止と築城部の設置によって、函館支署は陸軍築城部函館支部と改称された。
 このようにして、函館要塞の建築が本格化し、日露戦争開始直前の明治36年、総額47万7398円余を投じた同要塞の工事はひとまず終了した(『津軽要塞築城史』)。
 では、函館要塞の建設された理由はどのような点にあったのだろうか。前記の「函館港防禦計画ノ要領」(明治28年)が、「函館港ハ北海道ノ要港ニシテ敵ヲシテ之ヲ占領セシムル時ハ其利スル処莫大ナリ、故ニ茲ニ防備ヲ施スハ目下ノ急務ナリトス、且ツ北海道ノ命脈ハ本土トノ交通如何ニ関ス」と述べ、明治31年制定の「函館要塞防禦計画書」が、その目的として、

一、敵軍ヲシテ本湾ヲ利用セシメサル事
二、北海道ト本土トノ交通ヲ容易ナラシムル事

の2点を挙げているように、函館港自身の軍事的価値に加えて、同港の北海道と本土との連絡ルートとしての重要性が、函館要塞建設の最大の理由であった。
  しかし、日露戦争の全期間を通じ、函館要塞が前記の目的を達成したかというと、それに肯定的評価を与えることはできない。すなわち開戦6か月後の37年7月下旬、ロシアのウラジオストク艦隊が日本海方面から津軽海峡を抜けて太平洋に出、静岡県付近まで南下して日本の商船を攻撃し、反転して再び北上、再度津軽海峡を通過して日本海に去るという事件があった。この時、函館要塞はロシア艦隊の行動を何ら阻止することができなかった。当時、要塞の警備にあたっていたのは、明治30年に設置された函館要塞砲兵大隊であったが、ロシア艦が最初に侵入した7月20日の場合、敵艦は「午前三時三十分龍飛岬附近ニ現ハレ五時五十分砲台ヨリ約三万米ニアリ、諸砲台ハ発射準備完了セリト雖敵艦射程内ニ入ラサルヲ以テ射撃スルヲ得ス」(『函館重砲兵聯隊歴史』)という状況で、帰途の7月30日の場合もほぼ同様であった。
 このように、眼前を遊弋(ゆうよく)するロシア艦隊に対して、函館要塞の砲台は、これをなすすべもなく見つめるのみであった。そして、このロシア艦の行動により、函館・小樽をはじめ道内の各地は情報が混乱し、社会不安が生じたのみならず、経済的にも大きな打撃を受けた。このことは、北海道と本土との交通の確保を目的とする函館要塞の存在意義に、陸軍内部からも1つの疑問を生じさせる結果を招いた。
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