通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第3節 函館要塞と津軽要塞
1 日露戦争期の函館要塞

函館要塞の設置

津軽海峡の応急防備

津軽海峡の応急防備   P278−P280

 明治38年5月19日、参謀総長の山県有朋は、陸軍大臣寺内正毅と津軽海峡の応急防備に関する協議を行なった。その際山県は、「北太平洋ト日本海トヲ連接シ我本土卜北海道トヲ離隔セル津軽海峡」に防備を施すことが、目下の急務であるとして、海軍の津軽海峡への水雷設置にあわせて、陸軍も海峡の両岸に海岸砲台を築設すべきであると述べている。
 5月24日、寺内陸軍大臣は山県参謀総長に対し協議結果に同意の回答を行なうと共に、陸軍築城部本部長に「津軽海峡防禦設備要領」、「津軽海峡防禦砲台構築要領」を示して工事の実施を命じた。また、門司野戦兵器本廠長に対しては、戦利品である15センチ速射カノン砲18門を旅順要塞司令部より受領の上、直ちに函館へ輸送することを命令した。築城本部はこの命令を受けて、函館に臨時出張所を設け、5月27日より工事を開始することになった。
 では、津軽海峡の防備工事の具体的内容は、どのようなものであったのだろうか。前記の「防禦設備要領」によれば、次のようになっていた。
(1)敵艦の海峡通過を防害するために、海峡の東西両口に防備を施すこと
(2)そのために、東口の大間崎と戸井付近、西口の龍飛崎と白神崎付近に、それぞれ15センチ速射カノン砲18門を備えた海岸埠台を築設すること
(3)これらの火砲は旅順の戦利品を流用し、砲1門に対して約100発分の弾薬を準備すること
(4)通信網および防禦営造物は、「戦闘勤務ニ差支ナキ程度」に設備すること
図2−2 函館要塞

(浄法寺朝美『日本築城史』、原書房、昭和46年)
 また、「防禦砲台構築要領」によれば、
(1)各砲台は臨時構築とし、これに15センチ速射カノン砲を据え付ける
(2)砲具庫、弾薬庫、兵舎などの位置および規模は、15センチ砲1門に対し、弾薬300発、人員22名の割合で選定の上、構築すること
(3)通信網は、砲台と最寄りの電信局間とを連絡すること
(4)交通路は、火砲運搬のため必要最小限の部分のみの開設とする
(5)これらの建築に必要な敷地は、徴発する
(6)備砲工事に必要な人員と器具は、函館要塞のものを使用することができる
(7)工事は、7月下旬までに竣工させる
(8)工事費予算は、砲床築設費を合わせて17万8100円とする
といったことが定められていた。
 そして、まさに砲台工事に着手しようとした5月27日、日本海軍はロシアのバルチック艦隊を日本海の対馬海峡付近において捕え、ほぼ完全に撃破した。
 この結果、もはや応急措置としての津軽海峡の防備工事の必要性はなくなり、とりあえず5月31日、現地の出張所に対し工事の中止命令が出された。さらに翌6月23日、津軽海峡応急防備工事の一時中止について、参謀総長は陸軍大臣に協議し、同28日になって正式に中止が決定された。かくして陸軍大臣は、築城本部長に工事中止を命ずると共に、旅順からの火砲の函館回送も、あわせて中止されたのである。
 同38年9月5日、日露講和条約が調印されたが、函館・対馬両要塞で施工中の永久化のための工事は部分的に継続され、9月下旬に完成した。しかし、函館要塞を含む津軽海峡の「永久防禦ニ関スル計画」は、日露戦争終了後という国際情勢の変化のなかで、あらためて検討されることとなった。
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