通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実
第1節 市制の開始
3 湯川町の合併と市城の拡大

大字亀田村の市街化

湯の川温泉街の発達と上水道問題

温泉郷の問題

合併条件の提示

函館市と湯川町の合併

温泉源の問題   P245−P247

 ついで、温泉源そのものが問題となった。温泉街の発展で村勢は拡大したが、その源である温泉源の鑿掘は営業者各自に委ねられたままであったので、乱掘による湯量の減少、枯渇が頻発、多くの営業者がいつも温泉源枯渇の不安に付きまとわれながら、対応資金の用意を念頭において温泉旅館などの経営に当たるという状態になっていた。しかし「乱掘の防止は、一般の常識徳義に訴へるの要があるが、扨て現在の湯の川では迚も六敷しい」(大正10年2月27日付「函日」)と評されるほどで、有効手段を講じることは難しい状況にあった。
 大正10年2月に村長に就任した藤原覚因は、最初の村会で安定供給可能な湯元を村が管理する温泉村営を提案、調査委員の任命がなされ調査が開始された。12月、村は湯川温泉村営案を決定、道庁に認可を申請した。湯元は2箇所で、松倉川下流の堤防(当時の新聞には「春駒(料理店旧かめや)の背後に噴出するもの」)と根崎浜沖合海中(こちらは「根崎の浜つるやの裏手三〇間沖合の深さ一丈の海中より噴出するもの」)で、「需要者に鉄管にエナメルをかけたものにて供給する予定計画」と紹介されている(12月4日付「函新」)。
 翌11年に入ると「村営温泉指令促進」を第1目標とする「湯の川保勝会」を設立(5月13日、会長佐藤祐知、顧問藤原覚因村長)して運動を進めた。8月9日、道庁より村営温泉工事許可が下り、松倉川堤防の方から工事が進められることとなった。しかし全村挙げてこの計画に賛同したわけではなかったようで、「函館毎日新聞」は25日に「温泉村営徹底的解決期待」と題して、次のような意見を載せている。

 (前略)目下の村営方針を聞くに従来鑿掘使用せる個人の湯量に対しては何等の制限を加へず単に村事業として根崎に二個の新井を開鑿し希望者に湯量を供給するに過ぎざる由にて、斯くては漸次噴出量を減少しつつあるに対し何等効果あるを見ず、却て村営と個人との間に於て禍根を醸成するに至るべしとも推測せるを以て、此際該温泉場の不況の機会に於て村当事者及村有志は自己の小利害を捨てて村債に依り湯の川、根崎両所の湯井を全部買収し一様に村営を以て供給する断然たる処置こそ望む処なりとは該村に於ける公正なる意見である。

 また、湯川村はその翌12年の4月に一級町村制の村となって6月には村議選が行なわれた。藤原覚因村長の温泉村営計画を支持する人々が大勢を占め、11日の村会で藤原村長が再選された。ところが、村議選では温泉村営に徹頭徹尾反対のものも運動したので、有権者227名中222名が投票に訪れるほどの激戦であったと新聞は伝えている(6月2日付函日」)。
 こうした中で翌12月14日には、松倉川堤防での湯元工事が竣工し、竣工式と祝賀会が挙行され、いよいよ村営温泉が始動したのである(12月15日付 同前)。
 温泉事業は湯元工事開始以来、村の一般会計から分離して温泉特別会計として経営され、使用料および手数料が維持管理費を上回ることが期待された。ところが当初の予測に反して一般会計から補填しなければならない事態が頻発し、昭和9年には「温泉保護会」が村営廃止の請願書を渡島支庁へ、陳情書を村会へ提出するほどで、温泉源の維持管理はなかなかの難問であった。この請願書の取り扱いについて渡島支庁は、湯川村から事情聴取を行ない、その結果「相互間に於て談合を遂ぐべき程度に止め静観に決定した」と報道されている(3月5日付「函新」)。
 維持管理費が嵩んだ主要因は、温泉を供給するための木管内にガリ(温泉から分離した炭酸石灰が主成分の拆出物)が付着してすぐに湯量減少となり、しばしば木管を取り替えなければ温泉供給事業の継続が危うくなるということであった。湯元の配管は3年に1度は新しくしなければならなかったという。温泉源の維持管理が、財政を圧迫し、合併の際の促進希望事項の第4番目に、「温泉使用料は速に適当の額に減額せられたし」という1項が載せられることになるわけである。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ