通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 湯の川温泉街の発達と上水道問題 |
湯の川温泉街の発展と上水道問題 P243−P245 一方湯川側は、詳細は後述するが、村(町になったのは昭和10年)の発展の源である温泉の問題で財政が圧迫され、函館市との合併に取り組まざるを得なかったのである。大半が山岳と丘陵地の湯川で、湯の川温泉街は特異な存在であった。湯の川温泉は昔から自然湧出の温泉で、幕末期に蝦夷地の隅々までその足跡 を印した松浦武四郎の「蝦夷日誌」に記されているように、療養目的の湯治向けの温泉で(『函館市史』史料編第1巻)、箱館戦争の時五稜郭にこもった彰義隊の丸毛午之助の回想記にも「余疥癬を患へしを以て一週七日間の休暇を請ひ湯川村の温泉に浴せしに頗る奇効を覚へ幾許ならずして癒へたり」(「感旧私史」)と書き残されている。 明治18年、福井県出身の井戸掘り業者石川藤助が温泉場付近で採掘を繰り返すうち高温で湯量豊富な温泉を掘り当て、函館の恵比須町(現函館市末広町付近)で浴場「恵比須湯」を営んでいた義父石川喜八が、その翌年の12月、新湯元を名乗って温泉開業広告「湯の川村温泉開浴広告」を新聞に載せた(12月5日付「函新」)。以後温泉の採掘が流行って、明治20年代中頃には温泉湧出箇所が40箇所にもなったという。次々と温泉旅館や温泉別荘などが造られ、付近の地価は急騰したと当時の新聞は伝えている。 さらに、函館馬車鉄道会社が明治31年に湯川線の営業を開始してたくさんの保養浴客を運び、湯の川温泉は保養地としての地位を確立していった。その後大正2年6月馬車鉄道が電化され、函館の東雲町と湯の川温泉がわずか30分で結ばれて一段と発展し温泉街と呼ばれるに相応しい温泉となっていった。 しかし、温泉街として発展したことにより、衛生的な飲料水を多量に確保供給することが必要となり、上水道の敷設が緊急課題となっていたのである。昭和4年1月、湯川村は9人の調査委員を挙げて水源池適地等の調査を行なった。調査の結果、自力で上水道を敷設する案は断念することとなった。つまり鮫川を水源として深掘地区に水源池を作る案は水量不足で価値なしと決定、松倉川もその上の山に鋼の採掘許可が下りていることが確認され、この地に水源池を設ける案も断念せざるをえなかったのである。このため函館市へ上水道の延長を依頼することに決定し、市当局と市会議長への働きかけを行なうこととなった。 函館市側は湯川村が函館市の都市計画区域(大正15年7月6日区域決定…内閣認可)に包括されることもあって、両者とも快諾したと新聞は報じている(昭和4年2月24日付「函日」)。しかし函館市による上水道敷設は順調に運ばず、後の合併時の促進希望事項の第1番に「上水道は合併と同時に着手」が挙げられていることは、温泉街の発展にとっては、上水道敷設が最重要事項であったことを如実に示している。
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