通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第2節 商工業の進展と海運・漁業の展開
3 日露戦争後の海運事情

戦後の海運事情と定期航路の改廃

第1次世界大戦と海運好況

地場海運企業の勃興

船成金の登場

船成金の登場   P145−P148

 第1次世界大戦の海運好況により急速に資産を築くものが登場し、当時の新聞はこれを「船成金」と呼んだ。全国的には中央で大正4年に60割もの配当を行い世間の注目を浴びた内田俊也はその典型的な例として知られている。三井物産の社員であった内田は、開戦直前に会社を辞めて内田汽船会社を起こし、転貸の手法で大きな利益をあげた。こうした例はひとり中央にとどまらず、北海道においても中心的な海運市場である函館に船成金を登場させた。開戦による船腹不足、運賃の暴騰、そして船価が30倍以上にも上るという異常な事態は船舶売買に巨利をもたらし、小熊、金森、日下部などもその例に漏れない。彼らはいずれも経営基盤がしっかりしており、資本を有していたことから有利な投資が可能であった。しかし船成金と称された人々は薄資であっても先見性や豊富な経験のもとにこの好景気を生かして巨万の富を得たのであった。つまり函館はこれらの人物を登場させうるだけの海運市場を提供したのであった。海運好況は函館に全国的で第3位の経済成長をもたらしたという(大正6年8月16日付「函毎」)。ちなみにそれを裏付けるように6年の5万円以上の所得税納入者は函館は21名(小樽は7名、室蘭・増毛は各1名)と激増したが、「是等は船成金と称せらるるもの」(同年10月7日付「函新」)であった。
 海運好況の渦中に発刊された『現在之函館』(大正6年刊)は、函館を神戸に次ぐ海運界の中心地として位置付け、その空前の盛況を強調している。函館の現在の好景気は外ならぬ船舶、海運界のために夥しいものがあり、神戸や東京などは少数の大船主であるのに対して函館の特質として大小船主がいて、多様な海運活動を行っていると総括したうえで、この時期に活躍した船成金を紹介している。その典型例が松田助八であった。同書によれば松田は山梨の出身で明治36年に函館船渠会社の技師として来函し、同39年に同社を辞して後に函館で海運業、サルベージ業、船舶代弁業を行う松田合名会社を組織し、支店を小樽、大阪、門司、横浜に設けた。造船および船舶売買により大金を一挙にして獲得し、「函館第一の大金持にして全国有名の大成金也」と紹介している。また『堤清六伝』のなかにも彼について「松田助八といって甲州の人で、船成金の千万長者と言われたこの人物」とあり、大正8年頃に松田が船を売って900万円の資金を得たことを述べている。大正6年8月17日付けの「函館毎日新聞」にも松田汽船の特集記事が登場する。それによると松田は社業拡張のためにこの年に松田汽船株式会社と改組した。あわせて本社を大阪に移し、函館を支店とした。そもそも彼は日露戦争後の海運不況時に海外から1000トンクラスの汽船を購入、同時に大阪や新潟で新造船を発注した。これが資産形成の基礎となったという。6年には200から1200トンの汽船8隻により函館と根室、択捉、新潟、樺太、それに根室・新潟間や神戸・九州間などの航路に就航しているほか、15隻・3万トンの汽船を建造中であり、大阪において造船業も開始している。さらに同年9月18日付けの「函館新聞」には函館が日本では成金の第3位で、この1、2年に船舶を所有したものは10万、20万円と儲けることは日常茶飯事であり、その筆頭格は松田助八であると述べている。
 このほかに前掲の『現在之函館』には海産物委託、漁業、仕込商の奥田奥太郎(新潟出身)が「時局の好影響を受けたる船舶界に没頭し今や数十万の奇利を博し成金の一人」であり、海産商の川端石太郎(能登出身)も「今や船成金の一人也」としている。なお成金との評価はないが日下部久太郎について「海運界に活躍し時局の勃発するや盛んに船舶を買収して今や三千万円の財力を有す」と述べている。前出の「函館新聞」は、日下部のことを松田につぐクラスの船成金であり、彼の「懐都合のよくなったのは、僅々一両年であるにも拘らず、今は何千万円の身代だか分からない」として1日のチャーター収入が2万円もあると報じている。
 また当時、やはり船成金として知られていた小泉新一は下関出身で大阪商船等に勤務した後の明治末年に渡函し、品田鹿造商店の船舶部の主任を勤めたあとに独立、大正3年に同じく船成金と称された東京の清水賞太郎を説得して函館に清水汽船部を設け、錦旗丸(1550トン)など4隻の汽船を購入し、貸船や貨物輸送などを盛んに行った。小泉が実質的な経営にあたっていたが、5年にはこの清水汽船部から分離して東浜町に小泉商会を興した。太洲丸(1950トン)などを買収するかたわら新造船の発注も行い函館市中における新興船主として注目を集めた。しかしその後、小泉は清水と間に訴訟問題を起こしている。分離するうえで経理上のトラブルが起きたためであるが、6年9月22日付けの「函館毎日新聞」は「船成金の訴訟」と題して、この間の詳細を報道して、船成金同志の訴訟だけに興味ある事件としている。この記事の前にはやはり「船成金の訴訟」と同じ見出しで奥田奥太郎が訴訟に巻き込まれた記事が見受けられる。成金階層のある種のあやうさを読みとることができる。結局、彼ら船成金は海運好況という時流に乗り、船舶を購入し、高額の貸船料収入や船舶転売により巨額の利益を得るなど彼ら船成金は海運景気とともに急成長したが、海運好況が去るとたちまち経営基盤を喪失し衰退する一過性の海運業者でしかなかったといえよう。
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