通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 第1次世界大戦と海運好況 |
第1次世界大戦と海運好況 P138−P140 大正3年に第1次世界大戦が勃発すると、当初は海上輸送の危険から貿易業や海運業は苦境に陥った。しかし翌4年下期には対米輸出の増加や中国・東南アジア向けの輸出が伸びて状況が徐々に好転し、連合国からの軍需品の注文が激増して海運業も繁忙を極めた。また英仏の商船が徴用され、ドイツの潜水艦の活動による船舶被害が重なり、商船不足に拍車がかかった。これにより日本の海運界が活況を呈し、とりわけアジアにおいて日本海運は独壇場といえる活躍をした。この海運ブームはおもに社外船に大きな利益をもたらした。命令航路に主力を注いでいた日本郵船や大阪商船は政府の規制下で運賃変更も制約されたのに対し社外船主は遠洋航路に従事し、外国諸港間の輸送にも活躍した(『日本郵船株式会社百年史』)。海運好況は海運の一大拠点であった函館にどのような影響を及ぼしたであろうか。国内航路の出入を見ると大正元年が約570万トンであったものが、大戦期に入ると減少傾向をみせ、7年には440万まで減少している。大戦期に出入船舶が減少したことは必然的に船舶不足を意味して結果的に貸船料を高騰させ、運賃もこれに連動して暴騰した。運賃高騰は地場の海運業者に利益の増大をもたらした。なお噸数が減少しているのに対して隻数が増加(元年の1万2000隻から7年には1万6000隻)したのは大型汽船が海外航路へ展開したために小型汽船が近海航路で活躍したことによる。これは小型汽船を多く擁する地場の海運業者に大きなメリットを与えた。また世界的な運賃高騰は近海航路にも波及し、とりわけ貸船料の高騰が著しく4年に噸当たり7、8円であったものが、5年には10〜13円となった。また売買船価も噸当たり320〜330円と暴騰している。日本郵船は船腹不足を来し、小樽・神戸東回り航路は前年に比較してすこぶる不振であったが、運賃高騰により、むしろ運賃収入は大きく増加した。東回り航路こそ貨物が減少したが、函館と道内および樺太航路は他社の減少により日本郵船の扱い貨物は増加した(『殖民公報』第94号)。運賃高騰により経済界が海運界に左右されるという現象が生じた。ちなみに表1−43は金森商船の大正5年の創業の年から14年までの営業状況であるが、好況の時期には所有船舶の半数を貸船しており、貸船による収入は直営収入の2倍にものぼつていることがわかる。こうした運賃収入の増収は、海運業者にとっては歓迎すべきことであったが、利用者側には様々な影響が出始めた。とくに4、5月頃は露領への出漁のために多大の船舶の需要期となるが、出漁者は打撃を受けて政府に保護を陳情するものも現れ、運賃暴騰から低廉な帆船に活路を求めるものや事業を縮小しようという動きもあった。日本郵船は西回り航路や樺太航路の運賃値上げをし、さらに他航路への配船に窮して東回り航路の13艘を8艘に減船して対応した。年の後半に入っても、この海運景気は続き用船料も11円台を保ち、停戦の動きがあるなか海運界のみが活況を呈した(大正6年1月1日付「函毎」)。
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