通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 復興から成長へ

コラム33

なつかしの映画館・演劇場
あなたはいくつ覚えていますか

コラム33

なつかしの映画館・演劇場  あなたはいくつ覚えていますか   P763−P767

 昭和20(1945)年8月15日、敗戦を迎えたその日、函館市内の映画館、演劇場は正午から臨時休場となったが、常設映画館は23日から、劇場や寄席は26日から一斉に開場し、慰安を求める市民が押しかけて満員となった(昭和20年8月16日・17日・26日付け「道新」)。これまでの戦争に関連した芝居や漫才、歌謡曲などの実演、映画は上映・上演できなかったので、娯楽映画が再映されていた(同20年8月28日付け「道新」)。
 連合国軍の占領が始まると、11月には映画公社、日本映画社など戦時中の国家統制機関は解散となり、12月には映画法が廃止されて、日本映画界は国家による統制から解放された。映画は「民主化」の啓蒙に役立つものとされたが、CIE(民間情報教育局)やCCD(民間検閲支隊)による映画の検閲と企画の指導は厳しかった(講座日本映画5『戦後映画の展開』)。

巴座の入場券(函図券)
 昭和20年12月、函館市内にある30の映画館・演劇場の総入場者は約71万人を数え、昭和19年12月の2倍以上に伸びている。昭和20年の現住人口18万人余が平均4回程度足を運んだ計算になる。入場者の内訳は、歌謡曲などの実演が5割、映画が4割、演劇は1割であった(昭和21年1月26日付け「道新」)。大衆の求める内容の映画がまだ制作されなかったのか、実演の方が人気が高かったようで、とくに実演劇場として市民の人気を二分したのは、「巴座」と「公楽映画劇場」であった。
 「巴座」は、回り舞台に昔ながらの升席の劇場で、家族や親戚一同で升席に座り、巴座劇団の芝居や剣劇、歌舞伎などを楽しんだ。昭和28年には純実演劇場から映画上映劇場へ転向、昭和30年代には本格的洋画封切館として平成5(1993)年に閉館するまで、劇場といえば「巴座」というほど函館市民にとっては思い出深い劇場であった(読売新聞函館支局『函館歴史巡り』、NHK函館放送局編『随想・はこだて散歩』)。
 また、「公楽映画劇場」は、回り舞台はなく、全席イス席で、実演にも映画にも対応できる広い舞台が備わっていた。三橋美智也、美空ひばり、和田弘とマヒナスターズなどの歌謡ショーの公演がおこなわれていた(前掲『函館歴史巡り』)。
 昭和20年には1円だった日本映画封切館の普通入場料は、22年から23年の1年で10円、20円、40円と倍々に跳ね上がっていった。ちなみに、北洋博覧会がおこなわれた29年で100円、35年で200円であった(週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』)。
 娯楽税が5割増しとなった昭和23年の正月、映画・演芸・演劇の市内の総入場者数は66万人だったが、そのうち映画が63万人と大半を占め、高くなった入場料を嘆きつつも市民1人が平均3回以上映画をみたことになる(昭和23年2月28日付け「道新」)。しかし、正月以降、市内17館の映画館・劇場の入場者は減少し、各館とも開館以来ないほどの赤字を記録した。16円でみられた映画が、重税で40円になり、客は封切館よりも古い名画を10円、20円で上映する映画館に流れていったのである(同23年12月6日付け「道新」)。

公楽映画劇場(函図蔵)

「外人部隊」のポスター、函館では昭和30年に上演された(函博蔵)
 入場者は減少したものの、青少年の娯楽として映画の占める割合は高かった。中学生や高校生は試験が終わると映画をみにいく、また休みの日は友達と映画館へいくというのが定番であった。市内の高校生は、8割が洋画のファンで、1か月に映画館に5回以上いくのが1割、3回以上が3割、1回が半数に達していた(昭和28年5月22日付け「道新」)。洋画といえば棒二森屋百貨店の5階にあった「ニュー東宝」、大森町の「巴座」、彩華デパートの地下にあった「名画座」がよく知られる。
函館の映画館・劇場
館名
住所
大門シネマ
公楽映画劇場
文化劇場
ロキシー劇場
銀映座
巴座
中央座
富士館
セントラル映画劇場
パール映画劇場
東宝大門座
新星映画劇場
銀座 松竹座
大門 松竹帝国館
ニュー東宝
函館映画劇場
有楽座
近代テアトル
函館東宝劇場
大門小劇場
HBC劇場
松風町14
松風町7
新川町8
宝町11
恵比須町10
大森町22
高砂町96
音羽町13
松風町17
万代町213
松風町6
千代ヶ岱町1
蓬莱町17
松風町10
高砂町5
松風町17
大森町33
松風町20
松風町19
松風町16
真砂町6
1959年版『函館・道南人名録』より作成
 昭和29年は北洋博覧会の好景気もともなって(コラム18参照)、市内の映画館入場者数は最高の大入りとなる。例年6月から秋口までは20万以下の月が多いが、8月だけで40万2000人の入場者という記録を打ち立てた。中学生以上の市民が3回は映画を見ていることになり、″映画の好きな函館人″像を浮き彫りにした。同じく8月には日本初の試みと報道された「深夜興行」が富士館で始まり、一晩で500人以上が入館し大当たりとなる。「函館名物、富士館深夜興行、午後十時半から午前五時まで二本立五十五円」がうたい文句で、夜遅く働く人びとには嬉しい試みとなり、青函連絡船や汽車を待つ人たち、終電を逃した市民にとっても、安い入場料で映画を楽しみながら時間を潰す待合所となった(昭和29年9月11日・11月22日付け「函新」)。またこの年、メロドラマ映画「君の名は」が大ヒットし、全国で″真知子巻き″が大流行したが、近在でも臼尻、椴法華あたりからバスを借り切って映画館にくるという現象まで起きた(同29年9月22日付け「函新」)。
 昭和32年、函館に大資本経営による映画館が進出してきた。この年、函館における映画館入場者数は596万人と頂点に達する(各年『函館市勢要覧』)。東映直営館「函館東映劇場」に続いて、大映が直営館「函館大映劇場」の建設に着手した。冷暖房、エア・コンディショニングが完備し、地元資本では対抗できない豪華ぶりで、モデル映画館となった。新館が加わることで、邦画の封切館は1館1社、日活直営「大門シネマ」、東宝「公楽劇場」、「帝国館」、松竹直営「松竹座」、新東宝「セントラル」、と整理され、大映封切館であった文化劇場が2番館に格下げとなった。激しい観客争奪戦が展開され、昭和34、5年は既設館も次々と改築や増築をおこない、華やかな見世物を用意するなど生き残りを懸けた競争となった。そのうえ2番館、3番館が増え、チェーン化が進み、映画館は乱立時代を迎えた(昭和32年8月17日・同34年6月27日・11月29日、同35年3月26日・4月1日・11月24日付け「道新」)。

建設中の函館大映劇場(「道新旧蔵写真」)

看板による宣伝合戦(昭和35年、「道新旧蔵写真」)
 日本映画の観客動員数は昭和33年に11億2700万人に達し、その後ゆるやかに下降し、昭和38年に5億1112万人と半分以下に落ち込んでいく。昭和46年に日活、大映が制作停止に追い込まれた。原因はテレビの急速な普及にあった(四方田犬彦『日本映画史一〇〇年』、コラム35参照)。また、昭和30年代後半から40年代前半にはボウリングが空前の大ブームとなり、ボウリング場に転向した劇場もあった。一時期30館近くあった函館の映画館劇場も、昭和40年代にあいついで閉館し、その数は10館前後となり、「映画の時代」は終わりを告げた。(霜村紀子)
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第7編目次 | 前へ | 次へ