通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 復興から成長へ

コラム32

絵になる街、函館
映画・テレビの舞台

コラム32

絵になる街、函館  映画・テレビの舞台   P758−P762

 昭和25年(1950)10月、函館は都市部門で新日本観光地百選第10位に入選し、観光都市として全国に名乗りをあげた(昭和25年10月12日付け「道新」)。27年には、「観光函館」を呼びかけた、北海道の都市としては最初のポスターを制作、全国へ配布し、観光客の誘致宣伝をはかることとなった(「市政はこだて 第四五号」昭和27年4月20日付け)。
 前年には、対日講和条約が締結され、GHQによる映画検閲は撤廃された。これまで日本映画を縛っていた条項は撤廃され、映画会社も活動を本格的に再開し、量産体制が整っていった(四方田犬彦『日本映画史一〇〇年』)。制作本数は、昭和26年の67本が、翌年には278本、昭和30年には戦後最高の514本となる(講座日本映画5『戦後映画の展開』)。制作者側の環境は整い、映画を制作するために国内において手近なロケ地が必要となった。

八幡坂からみた函館港
 映画の舞台として、北海道は戦争による被害が少なく、本州とは異なる四季の変化があり、雄大で豊かな自然風土や独特の人工的な街並みを有した絶好のロケ地であった。北海道の入口である港町函館は、函館山周辺に多数の坂道があり、その麓には明治・大正期の洋館や教会など異国情緒あふれる街並みがある。路上には市電が走り、足を伸ばせばトラピスチヌ修道院や大沼、駒ヶ岳があるなどさまざまな素材が凝縮されていたので、当時ロケを短期間でおこなわなければならなかった制作側には、魅力的な土地柄であったといえる。
 函館が登場する作品は、戦前は昭和18年に函館を題材とした「函館病院より、戦陣に咲く」、戦後になって実際に函館ロケをおこなった昭和22年「リラの花忘れじ」、翌23年「われ泣きぬれて」と数えるほどであったが(竹岡和田男『映画の中の北海道』)、観光都市函館が認知されるにつれ、函館ロケ作品は目に見えて増えていくのである。

舞台となったトラピスチヌ修道院
 昭和28年、松竹は総天然色映画の第2弾「夏子の冒険」を発表する。日本映画ではまだ色彩映画は研究を重ねている段階で、すべての関心は色彩に集まることとなったが、この色彩の美しさを問われる作品で、舞台となったのが北海道であった。ロケは前年6月からおこなわれている(児玉数夫・吉田智恵男『昭和映画世相史』)。人生に希望を失った角梨枝子演じる主人公夏子が函館の修道院に入ると宣言して北海道に渡る物語で、トラピスチヌ修道院のほか、函館市内、函館山などが映し出された。地元では現地ロケに対する興味から公開以前に話題となり、劇映画としてよりも、観光宣伝用の効果が期待された。事実、この映画によって、東京では函館は良いところだという好印象を与え、観光を売り物とする他都市は函館にしてやられたと苦虫をかみつぶした(昭和28年1月16日付け「道新」)。
 函館ロケの魅力のひとつには市や市民の協力がたびたびあげられるが、昭和28年5月に開始された独立プロによる「蟹工船」においても、子どもや北海道学芸大学(現北海道教育大学)の学生のほか飛び入りのエキストラが積極的に参加し、演技も巧くこなし役者を喰う勢いだと、制作者側から感嘆の声があがった(昭和28年5月26日付け「道新」)。
 またこの28年には函館山展望台が完成、函館山登山バスも運行を開始し、頂上からの景色、とくに夜景の美しさが話題となった。
 昭和32年には函館山は新日本百景で第1位となり(コラム17参照)、翌33年には函館山ロープウェイが完成し、大沼は国定公園に指定される。


「白い悪魔」、函館白百合高校でのロケ風景(「道新旧蔵写真」)

 この年、函館を題材あるいはロケ地として制作された映画は、佐田啓二主演の松竹「モダン道中 その恋待ったなし」、東映「点と線」、日活「白い悪魔」と小林旭主演の「二連銃の鉄」、新東宝「新日本珍道中 東日本の旅」と5本を数え、各社揃い踏みとなった(函館山ロープウェイ映画祭実行委員会「ロケ地がいっぱい 函館シネマップ」)。
 その後も昭和34年には小林旭主演の渡り鳥シリーズ第1作「ギターを持った渡り鳥」、昭和39年には石原裕次郎主演の「赤いハンカチ」「夕陽の丘」の2作品、三国連太郎主演の「飢餓海峡」、昭和40年には高倉健主演の「続網走番外地」など代表的な作品を並べるだけでも、ほぼ毎年継続的に函館ロケ作品は制作されている(前掲『映画の中の北海道』)。
 テレビドラマでも函館は舞台として頻繁に登場していたが、昭和48年に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「北の家族」は全国に函館観光ブームを巻き起こした。観光業者や市民団体が「北の家族」協力会を発足させ、市も観光客の誘致宣伝事業費を2倍に増やすなどして函館を売り出し、ロケ隊を待ちかまえた(昭和48年2月4日付け「道新」)。ドラマの佐々木一家は元町に住むという設定であったため、ハリストス正教会や八幡坂、函館山など観光函館の名所が随所に映し出された。放映が始まると、ヒロインの高橋洋子らが用いる″函館弁″が話題となったが、日本に失われつつあるものが残る古き良き函館、おおらかで明るく我慢強い家族像が共感を呼んだ(昭和48年2月21日付け「朝日」、同48年2月11日付け「読売)。
 昭和45年を頂点に横ばいだった観光客は「北の家族」ブームに乗って大幅に増加し、昭和48年の上半期の来函観光客は240万人を突破し、前年比19.6%の伸び率となった(昭和48年12月27日付け「道新」)。ロケ地となることは観光宣伝の格好の手段であり、映画やドラマのヒットが観光客の増加にも結びつくため、市は積極的に誘致し、撮影に協力した。制作側にも市や市民の協力的な姿勢は好印象を与えたであろう。
 昭和58年には高倉健主演の「居酒屋兆治」、平成元年には森田芳光監督作品「キッチン」など、函館は多数の映画の舞台となり、映画の街として知られるようになった(前掲「ロケ地がいっぱい 函館シネマップ」)。平成10(1998)年度の観光ポスター「映画のように街を歩こう」「フルスクリーンの感動」も記憶に新しいところである。
 函館は多彩な要素が詰まった街である。海に浮かぶ函館山の麓には異国情緒あふれる教会や古建築が建ち並び、「現実離れしたロマンティックな街、異空間のような場所」(平成12年5月23日付け「道新」)であることを感じる者もいるだろう。と同時に、演歌の世界のように「北国のロマン」(昭和52年3月5日付け「朝日」)を感じさせる港町でもある。セットそのままの街並みに、人びとの息吹や生活感が感じられる、そんな奥行きのある街だからこそ映画やドラマの舞台として人気が絶えないのであろう。(霜村紀子)

「北の家族」ロケ風景

平成10年度「函館市刊行ポスター」
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第7編目次 | 前へ | 次へ