通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム9

住宅難と市営住宅
住宅難をしのぐアイデア

コラム9

住宅難と市営住宅  住宅難をしのぐアイデア   P642-P646

 敗戦間際の昭和20(1945)年7月14、15日、函館の街は連合国アメリカ軍の空襲を受け、家屋408戸が焼失した(西村恵「函館の空襲に関する米国戦略爆撃調査団報告」『地域史研究はこだて』第10号)。またこの年5月と7月に実施された、建物の「強制疎開」(空襲による類焼に備え建物を倒壊した)により、約4000戸が失われていた。このような理由で、函館市内の住宅戸数は、敗戦前の約4万2000戸から約3万7000戸に激減していた(昭和22年9月26日付け「函新」)。
 これに加えて海外からの引揚者や旧軍人の復員者の激増や疎開者の再転入もあって、住宅難は深刻をきわめた。住居をめぐる紛争が市内各所に起こり、余裕住宅の開放も効き目なく社会問題ともなっていった。
 このような事情を昭和22年9月26日付けの「函館新聞」は、「函館も深刻な住宅難 建物疎開と人口急増が原因」、との見出しで、敗戦後2年たっても解消されていない住宅難の課題のひとつが、一向にはかどらない住宅建設にある、と報道している。
 住宅資材をはじめ建設にかかわる一切の物資が極端に不足し、住宅不足が深刻化するなかで、住宅確保のためににいろいろなアイデアが生まれ、そのいくつかは実行されていった。
 「ミナト函館にふさわしい〈海の家〉」が、青函連絡船桟橋前岸壁に登場したのは、昭和22年の春である。この家は、引揚者本人のかつての持船で廃船として港内に係留・放置されていた機帆船福吉丸(90トン)を改装したものであった。船倉(デッキホール)は50畳の大広間、デッキの手摺りは塀に、マストは電柱とアンテナに変身し、「使いすてた船が家になるなどとは時代が変わったものです……。明日からの生活に〈海の家〉とでも名づけ旅客相手の土産物屋でも開くつもりです。」、と住宅難を解決した喜びを語っている(昭和22年4月27日付け「道新」)。当初ここには家主を含めて3世帯が住んでいた。

海の家(昭和22年4月27日付け「道新」)

カマボコ型住宅(昭和23年4月3日付け「道新」)
 もともとこの「海の家」は数年間も風雨に曝されていた廃船である。老朽化には勝てず、船体の傾斜も大きくなって、岸壁から張ったワイヤーロープ1本で支える状態では転覆の恐れもあった。加えて桟橋前という立地から旅客相手におかず屋・おでん屋などを営んでいたことが観光や衛生の面でも問題となって、居住者11世帯の立ち退き移転の話が解決して3年以上つづいた「海の家」に幕が降ろされた(昭和24年12月7日、同25年6月22日付け「道新」)。
 深刻化する一方の家飢饉解決の一策として考案されたものに、道南産のぶな材を活用したカマボコ型簡易住宅があった。この住宅は、服部造船所職員の考案によるもので、昭和22年12月に公表され、翌年4月に鶴岡町モータープール商会前広場で試作建築がおこなわれた。間口3間(約5.4メートル)、奥行き4間のこの住宅は、居間12畳、寝室10畳に玄関、便所など合わせて14坪で、通常の住宅の半分の資材と手間で建築でき、建築費も洋服タンス、ソファー、テーブル、戸棚などの家具付で約7、8万円の安価格だったから、樺太引揚者更正小売組合注文の30戸を手始めに建設に着手し、住宅難解決に一役買うものと期待されていた(昭和22年12月2日・4月3日付け「道新」、同23年4月3日付け「函新」)。安価とはいえ、住宅難に喘いでいた人には高嶺の花であった。
 堀川町には共同宿泊所があったがいつも満員で、「新版がんくつ王」と言われ、函館公園内の廃物で、入口が石造り中は土のため保温性もある熊の穴で住宅難を解決していた人(昭和23年11月27日付け「道新」)、あるいは、新川河口附近の土提や「砂山」に粗末な仮小屋を造って生活を続けた人もいた(コラム48参照)。
 このような深刻な住宅難の緩和に一役買おうと、市の職員が払い下げを受けた古電車(200型)を改造して、耐久性のある簡易住宅「電車住宅」の試作を始めた(昭和24年4月22日付け「道新」)。高盛町には7棟の電車住宅が造られ、その後増改築がおこなわれたが、昭和の終わり頃まであったという(昭和20年代から高盛町在住者談)。
 一方、市も住宅問題にただ手をこまねいていたわけではなかった。計画だけで終わったが、住宅難緩和のひとつとして現在の旧函館区公会堂を開放してアパートにする案を構想していた。当時公会堂は函館営林局が借り受けていたが、駒場町の新事務所移転を契機に改造して20世帯を収容しようという目論みであった(昭和22年12月2日付け「道新」)。
 市の構想する住宅計画の本格化は、昭和22年度から市営住宅を建設するという方向で進められた。まず人見町に昭和22年度から24年度にかけて166戸の木造住宅が建設され(昭和26年『函館市勢要覧』)、昭和25年には、「もう少しのご辛抱 住宅難に明るい希望」、と言われて金堀町(現人見町)に70戸の木造市営住宅が建設されたが、56戸の入居予定に17倍の申し込みがあった(昭和25年11月9日付け「函新」)。
 戦後初めてといわれた鉄筋コンクリート造り4階建てのアパートが松川町に建てられたのもこの年であった。
 昭和28年度からは柳町を皮切りに道営住宅の建設も始まったが、依然として住宅不足は解消されなかった。

金堀町の市営住宅建設(昭和25年)

市営松川アパート第1号館
 戦後10年たった昭和30年頃でも住宅難は大問題で、「人口の増加などにより借家、間借住まいの世帯は増加する一方で、日常生活費におわれ住宅の新築は一部の市民を除いてはとうてい不可能に近い状態で、従って住宅問題は山積する重要問題の中でも急を要する問題である」と認識されていた(昭和31年『函館市勢要覧』)。
 昭和38年の住宅統計調査結果から(『函館市統計季報』41)、その後の住環境の推移をみておこう。図のとおり住宅数は確実に増えてはいるものの、間借り世帯の解消には至らず、住宅の不足は、相変わらず続いていることがわかる。(花岡さえ子)
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