通説編第4巻 第7編 市民生活の諸相(コラム)


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第1章 敗戦後の状況

コラム10

子どもの遊び
変わりゆく遊びのスタイル

コラム10

子どもの遊び  変わりゆく遊びのスタイル   P647−P651


幸坂を滑り降りる子どもたち

ゲロリ(函博蔵)

昭和30年代のメンコ(函博蔵)
 函館山の山麓にあたる西部地区には坂道が多く、雪が降り凍結する冬場には至る所で路面がアイスバーン状態となる。冬の坂道は交通車両にとってはやっかいな存在であるが、かつては子どもたちの絶好の遊び場で、坂の頂上から一気に滑り降りるスピードとスリルを求め、所せましと子どもたちの歓声で賑わっていた。この坂すべりは、古くは江戸時代の記録『蝦夷島奇観』にも記されていて、「サレヨ、サレヨ」などの掛け声とともに、竹や木などで工夫を凝らしたすべり用具が使われてきたという。
 昭和40年頃までは、西部地区の坂はもとより五稜郭公園などの土手のように、ちょっとした坂や傾斜のある場所では、どこでも同じような光景が見られた。使われたすべり用具も、短く切った竹に乗る竹すべりといった簡単なものから、細い敷居の金レールなどを付けた手作りの木製ソリ、ゴム長靴に付けたスキーなどもあった。
 また、平地では、戦前はゲタ(下駄)に金具を付けたゲタスケート(ゲロリ)が全盛だったが、戦後は長靴に金具を革ベルトで固定した雪スケートに変わっていった。スケートで路面電車と競争したり、荷馬車や馬橇の後ろに捕まりながら滑ったりと路上が遊び場であった。
 その後、自動車などの交通量が増加するに従い、事故の心配から次第に路上遊びの範囲が狭められ、昭和40年代の後半頃には、ほとんどの坂道でのソリ遊びなどが禁止されるようになり、「サレヨー」の掛け声が響くことはなくなっていった。
 春から秋にかけても様々な遊びがあった。中でも戦前から戦時中にかけての男の子の遊びは、時代を反映して戦争ものが中心で、他にはチャンバラや伝統的なカルタや双六などもあったが、これらにも戦争色が濃く映し出されていた(平凡社「子ども遊び集」別冊太陽)。
 一方、女の子の遊びはというと、江戸・明治・大正時代などを通じて伝承されてきた「お手玉」「アヤトリ」「オハジキ」などをはじめとして、「ままごと」「人形遊び」が代表的なものとしてあげられる。この傾向は、戦後に至るまでそれほど大きな変化は見られないが、時代が移るにつれ、おもちゃの材質がブリキやセルロイド製から、ビニール製、プラスチック製へと確実に移り変わっていった。
 昭和20年の敗戦を境にして戦争色の強いおもちゃなどは占領軍の政策などもあって、しばらくの間は影をひそめていたが、西部活劇やギャング、チャンバラ映画の影響から、ピストルや日本刀などの戦争玩具が増え、男女の別もなくなり、ギャングや仇討ち遊びなどが流行するようになる。このため、北海道教職員組合の婦人部が中心となり、家庭、学校そして町内から戦争玩具の追放を求める運動がおこり、次第に戦争ごっこなどの遊びは下火となっていった(昭和27年7月18日付け「道新」)。
 これに対して、伝承されてきた道路や路地裏での「ビー玉」「パッチ(メンコ)」「ベーゴマ」などは男の子の遊びでは依然として根強く、昭和30年代以降でもしばらくの間、高い人気を保っていた。また、人数に関わらず、バット1本とボール1個があれば少しの空き地を見つけてできる、三角ベースの野球も盛んであった。さらには、竹トンボ、紙・水鉄砲、ゴムパチンコをはじめとした手作りの道具を使った遊びも盛んで、「肥後守(ひごのかみ)ナイフ」などを使って創作する楽しみもあった。しかし、このような遊びも昭和30年代に刃物を用いた殺傷事件があいつぎ「刃物追放運動」がおこなわれて、次第にその地位を失っていった。
 このように昭和40年代のはじめ頃までは、道路や路地裏、さらには小さな空き地などは、子どもたちの歓声でいつも活気があった。空き地にやって来る紙芝居屋も、子どもたちには人気があったが、テレビの登場と普及(コラム35参照)によって昭和30年代後半頃には、その姿は次第にみられなくなった。
 この頃の子どもたちは、学校から帰ると一目散に空き地などに集まり、大勢は大勢なり、少数は少数なりに、時間を忘れて様々な遊びを楽しんだ。石筆やチョーク1本と手ごろな石を使い、地面にマス目を描いて遊ぶ「石けり」や、五寸釘1本を地面に刺して陣地取りを争う「釘刺し」は、少人数の遊びの代表格であった。さらには、空き缶ひとつでかくれんぼする「缶けりオニ」や、輪ゴムをつなぎ合わせて跳び方を競う「ゴム跳び」などは、大勢での遊びの代表であった。このように、身近にあるごく簡単なものを使って、いろいろな遊び道具を工夫して、遊びに熱中した。
 しかし、盛んにおこなわれていたこれらの遊びも、次第に道路に車が増え、さらには空き地にも次々に建物が建つなど、遊び場所が減少して行くのに従い、子どもたちの遊びも方は大きく変わっていった。そのひとつとして、テレビを通して伝えられる遊び道具の広まりがあり、昭和30年代なかばにはフラフープやビニール人形「ダッコちゃん」などが大流行した。また、テレビ番組のヒーロー、ヒロインのグッズも子どもたちの遊びや生活に大きな影響を与えた。昭和40年代後半から50年代はじめ頃のオセロゲームやテレビゲームの流行をきっかけに、戸外で元気いっぱいに遊ぶ姿は影をひそめ、室内でごく少人数で遊ぶものへと変わっていった。(田原良信)

昭和24年発行『小学三年生正月号』付録 カラコロ島冒険双六(函博蔵)

チャンバラごっこ(昭和41年、俵谷次男撮影)

桟橋前で遊ぶ子どもたち(昭和30年、大和俊行撮影)

混雑するデパートのおもちゃ売場(昭和36年、「道新旧蔵写真」)
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