通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第7節 教育制度の整備と教職員の動向
2 高等学校の整備

入学志願者の増加と高等学校の新設

函館ラ・サール高等学校の設立

大学区制の採用

入学志願者の増加と高等学校の新設   P547−P549

 昭和30年代に入り、戦後のベビーブームの波が高等学校にまで及ぶこととなった。中学校卒業者の増加は、高等学校進学を希望しながら入学できない生徒の増大をもたらしていた。その背景には、函館市内の公立高等学校の全日制普通課程の収容率が、道内の主要都市の公立高等学校の収容率に比べ著しく低く、札幌の22.92パーセント、小樽の26.16、旭川の20.98パーセントに対して、函館は16.76パーセントという事実もあった(前掲『戦後学校教育の五十年』)。
 このような事態に対して、函館では公立高等学校の増設を求める動きが受験生の父母を中心に高まっていった。函館市教育委員会(以下、市教委)では、昭和36年度に公立高等学校誘致の方針を掲げ、北海道教育委員会(以下、道教委)に陳情をおこなったが、道教委の高等学校増設案には函館における新設は予定されていなかった。道教委の昭和37年度の高等学校急増対策年次計画では、既設の高等学校の間口増を予定しているだけであった。
 このような状況を受けて、函館では、市立高等学校の新設を求める市民の声が高まっていった。こうした世論の動向を背景に、市教委は昭和37年9月20日、市立高等学校の新設を決議、市議会に提案し、9月29日可決承認された。続いて、昭和38(1963)年1月18日、困難ななかで、道教委の認可を得て、「北海道函館北高等学校」の設置をみることとなったのである。

函館北高校の仮校舎
 同校は、校地を日吉町51番地に定め、通学区域を市内の東部および近隣の村とした。昭和38年4月9日、開校式を挙行した。当初は、千代台町にあった旧陸軍の兵舎を仮校舎として授業を開始し、昭和39年4月以降、日吉町に新装なった新校舎での授業をおこなうようになった。
 こうして、「教育基本法・学校教育法・北海道及び函館市の教育目標の趣旨にもとづき、善良有為な市民」(『北海道函館北高等学校二十年史』)の育成をはかる公立の中等教育機関が市民の熱心な世論を背景に、市教委などの適切な対応により誕生し、市民の教育需要に応えていくことになった。
 なお、昭和36年6月、学校教育法の一部改正により、高等専門学校の制度が発足する。函館では、それに先立つ、3月に、高専誘致の請願書を文部大臣に提出し、さらに、7月には函館工業高等専門学校設置期成会が結成され、翌37年、設置をみている(『函館高専二十五年史』)。
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