通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
3 陸と空の交通

国鉄離れ

モータリゼーション時代の到来

道路の整備

空港の開設

国鉄離れ   P489−P490

 第2次世界大戦中から、国鉄の乗車券は発売が制限されていたが、昭和21年から函館管理部発着の乗車券自由発売を始はじめとして、制限は大幅に緩和され、同年6月に道内発着は原則として乗車券割り当てがなくなった。また石炭不足のため休止していた列車も、22年2月から少しずつ復活、22年6月には、函館−旭川間急行が再開され、戦後復興の交通動脈としての役割を果たしている。完全に戦前並になったのは、28年4月以降であった(『先駆−函館駅八〇年の歩み−』)。
 表2−35にみるように、函館駅の1日平均の乗車人員は昭和30年代後半から40年代前半を境に、また貨物取扱量は20年代後半から30年代前半を境に落ち込んでいく。その原因は、空港整備による大型機の就航や高速道路の開通により、長距離旅客が国鉄を利用しなくなったこと、また自家用車が普及したことなどであった。それに対抗して、函館駅では、旅行サービスセンター・貨物サービスセンターの設置(41年)、座席予約自動装置(電算)設置(40年設置、42年使用開始)、待合室・総合案内所の改善(44年)、荷物相談センター開設(45年)、みどりの窓口拡張(52年)などをおこなうとともに、55年、新型三系特急気動車の営業運転を開始した(同前)。
 こうした努力をしても国鉄の経営状況は好転せず、昭和27年に開通した函館−松前線も赤字ローカル線として廃止の対象となり、62年5月に、木古内−松前間の線路は消えた。この年4月1日に、国鉄は幕を閉じ、分割民営化によってJR北海道が誕生している。
表2−35 年代別取扱数量(1日平均)
年次
乗車人員
指数
貨物トン
指数
昭和24
25
26
10,606
10,207
9,914
100
96
93
3,267
3,406
3,506
100
104
107
昭和34
35
36
11,190
11,174
10,508
106
105
100
2,996
3,020
3,108
92
92
95
昭和37
38
39
10,385
9,803
9,394
100
92
89
2,337
2,281
2,153
72
70
66
昭和54
55
56
7,328
7,105
6,518
69
67
61
1,202
734
346
37
22
11
『先駆−函館駅80年の歩み−』より作成
 貨物は、表2−35によると、旅客に比べて伸長期が10年早い。貨物が先に伸びて、旅客が遅れて伸びる。貨物取扱数の増減は、すなわち、物的流通の増減であり、産業経済の盛衰を表現する。函館駅取扱貨物の大半が中継貨物、すなわち、青函連絡船への積込、積卸貨物であるから、その増減は、青函連絡船貨物と一致する。このようにみると、この数字が示すのは、北海道全体の貨物取扱に占める青函連絡船の位置が相対的に減少していることを示すものと考えられる。その相対的比重の低下は、内航海運の機械化、大型化、高速化、専用船化による急速の伸びが原因であった。室蘭、釧路、小樽各港の急成長に加えて、38年4月開業の苫小牧港の文字どおりの大躍進があり、それらが内航海運の急成長を招き、それが国鉄、青函連絡船の比重低下をもたらしたとみるべきであろう。
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