通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第4節 交通・運輸体系の変容と函館の位置づけ
3 陸と空の交通

国鉄離れ

モータリゼーション時代の到来

道路の整備

空港の開設

モータリゼーション時代の到来    P490−P493


昭和36年の松風町付近(「道新旧蔵写真」)
 戦後函館の陸上交通は、各種自動車の前例のない激増を特徴とする(図2−34)。まず、貨物自動車(小型から後に普通へ)に始まり、軽自動車の普及へと続くのである。トラックの増加は、企業および産業の発展を象徴し、軽自動車の成長は、個人消費の増加を象徴する。いわゆる経済の高度成長期である。40年代後半には、乗用自動車が急激に伸びてくる。この場合の急増は、賃金労働者たちの賃金増大、生活安定の結果でもあるが、それは、自動車ローンと自動車保険の普及を条件としてはじめて可能となった。もはや乗用車は産業用生産手段でなく、耐久消費財として受けとられるようになった。
 次に戦後の市営電車(市電)、市営バス(市バス)、函館バス(民営)3者の乗客運送量をみることにする(図2−35)。市電は、昭和22年から、旅客交通手段として長く王座を誇る。同年の3407万人余から上昇を続け、39年には4934万人へと急増していった。その後は下降しながらも4000万人台を維持していたが、45年に3675万人台へと落ち込み、55年には最盛時の3分の1程度の1641万人余となって、50年代の下落は急激である。市電の乗客数落ち込みの結果、26年に開通した五稜郭駅−ガス会社前路線が53年に廃止された。さらに松風町−宝来町間が平成4(1992)年に廃止となり、翌平成5年には、函館駅前−ガス会社−五稜郭公園線が廃止された(第7編コラム46参照)。

花園町のバス停に並ぶ人びと(「道新旧蔵写真」)
 市バスの運送人員は昭和30年には、634万人で市電の年間運送人員の17パーセントに過ぎず、市電の補助的位置に止まっていた。
 以後、運送人員は急上昇し、44年にはピークの2450万人に達する。市電はこの年4027万8000人だから、市電の運送人員の61パーセントを占める。それから下降するが、55年でも1868万人余で、市電ほど激しく落ち込んでいない。この年の運送人員は、市電を上回っている。
 市電と市バスの2つは公共交通手段であり、両者を合わせると、55年でも、合わせて3509万7000万人で、29年の市電乗車人員にほぼ等しい。都市交通手段として、両者は大きな役割を演じていたといえるだろう。
 函館バスは、昭和19(1944)年6月、「道南自動車」、「下海岸自動車」、「渡島交運」、「大檜乗合」、「マツマヘ自動車」などの渡島・檜山支庁管内の乗合バス会社14社の戦時統合でできた会社で、資本金65万円、所有車両54両、従業員114名で出発した。戦後の経営難もあったが、32年に東急電鉄の系列下に入って経営の建て直しを図った(函館バス『二〇年のあゆみ』)。もともと、函館市内の都市交通には入らず、郡部のバスであったが、函館市が41年に銭亀沢村と、48年には亀田市と合併したため、両地域を走っていた函館バスは自動的に函館市内の都市交通手段となった。
 年間の運送人員実績は、24年には148万人余であったのが、以後急速に伸び、37年1089万人余と、1000万人台に達する。ピークは55年の1920万人で、市バスと肩を並べる最大のバス会社となり、函館の都市交通手段の一画を担っている。
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