通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第2節 地域振興と都市計画の推進
1 まちづくりのビジョンと都市経営

昭和30年・40年代のビジョン

「函館圏総合開発基本計画」にみるまちづくり

矢不釆計画の中止と「函館圏総合計画」

交通新時代に向けての「新函館圏総合計画」

まちづくり計画と都市経営の推移

まちづくり計画と都市経営の推移   P344−P348

 函館市にとってのいわゆる「高度経済成長期」は、矢野市政の16年間でもあった。その市政を回顧すれば、函館圏総合開発基本計画の策定とその目玉である矢不来計画の断念、亀田市との合併、市民会館をはじめとする各種公共施設整備などが列記される。矢野市長への評価は「まれに見る名市長」とする半面、「将来ビジョンを示さず借金を残した」との声もあり賛否が分かれた(昭和58年5月1日付け「道新」)。この期間、矢野市長自身が印象に残っていることとしてあげているのは「四十五年の函館圏総合開発基本計画策定、四十八年の矢不来地区の埋め立て断念・亀田市との合併、五十四年の函館ドック危機、五十六年のテクノポリス調査都市入り」であった(昭和57年5月25日付け「道新」)。
 矢野新市政がスタートする頃の函館は、「北洋、対岸貿易で栄えた経済基地の地位を失い、斜陽化の傾向をたどってきたが、青函トンネル開通を間近に控えて函館は政治、経済ともに新しい転換期を迎えており、この機会をとらえて沈滞した現状からの脱皮を求める」という状況であった。この斜陽化を招いた背景には、(1)市経済が北洋一辺倒になり過ぎて、戦後の北洋中断と再開後の函館中継基地化に対応する準備がなかった、(2)戦後の北海道開発が、道央地区に片寄り、道南は政策の基本路線からはずされていた、(3)民間設備投資の意欲減少と豊富な労働力の活用が不十分であった、などの理由があげられている。その意味で、第1の課題は、将来の函館像、ビジョンを明確に打ち出し、それに対する市民の意欲を引き出すこと、第2に政治と経済の提携、第3に道南の中心都市としての指導的地位を確立すること、第4に対外的な政治力の強化が求められていた(昭和42年5月2日付け「道新」)。具体的な課題は、港湾の整備と地元産業の振興であり、屎尿・ゴミ処理や道路の整備などの生活環境整備、さらに近郊4町との提携も求められた。しかし、なんといっても最大の課題は財政上の問題で、昭和42年度の一般会計予算の歳入が55億8500万円であるのに対し、人件費などの経常支出だけでも42億4742万円の歳出をもたらし総予算の76パーセントを占めているという、新しい事業をおいそれとはできない硬直化した行政体質の改善であった(『昭和四十二年第一回市議会定例会議案』、昭和42年5月3日付け「道新」)。
 このような課題を背負いながら歩んだ矢野市政の都市経営は、予算案の推移からいくつかのポイントを探ることができる。当初矢野市政は矢不来計画に代表されるように、工業立市をめざしたのである。しかし、昭和50年度の予算では、矢不来計画の断念により大型公約が「緑化10か年計画」や「旭岡ニュータウンづくり」に移行している。この2大事業に代表されるように「経済開発志向型から生活環境重視」への政策の転換がみられる(『昭和五十年第三回定例会 函館市議会会議録』、昭和50年6月27日付け「道新」)。
 矢野市政がスタートした昭和40年代は、人口移動の激しい時期と重なる(図2−8参照)。とくに湯川支所管内や亀田地区への移動が多いが、それは安価な土地を求めてのマイホーム建設であったり、郊外地へ建設された公営アパートへの入居などによるものであった。その結果として、函館市と亀田市との合併以降の約10年で旧亀田市域で6校、旧函館市域でも宅地化が急に進んだ湯川・日吉地区に4校の小、中学校が新築されている(昭和57年9月9日付け「道新」)。
 昭和53年度の予算案には、本格的に観光立市プランが登場する。そこには市民の文化財保存運動を契機とする動きがみられ、「函館には貴重な文化財が数多いので、それらも観光資源との観点から、もっと積極的な保存と活用を図るべきだ」と(昭和53年2月23日付け「道新」)、文化財と観光との接点を見出し観光産業への展望を示唆するポイントがあった。
 矢野市政の実質的に最後の年となる昭和57年度予算案は、緊縮の2文字に代表される内容であった。「せめて市税収入が、国の地方財政計画通りの伸びを見込めたら……」と市理財部長が嘆くように、主財源である市税収入は、56年度当初比8.8パーセント増の211億8900万円で当初の伸び率12.2パーセントはもとより、地方財政計画の13.1パーセントをかなり下回っていた(『昭和五十七年度函館市一般会計予算及び予算説明書』、昭和57年2月16日付け「道新」)。不況のなかにあっての予算編成でも「経済振興」が真っ先に掲げられた。その対策は、対症療法ともいえる建設事業の推進と体質改善のための諸施策に大別された。これまでの公共事業費の投入は、景気へのテコ入れ策とされているものの、実際に効果がどの程度あるのかは疑問視されていた。むしろ、地盤沈下した第2次産業の振興に向けた、企業誘致専従班の設置やテクノポリス構想の推進などの体質改善費にポイントがあった(昭和57年2月20日付け「道新」)。
 その後、テクノポリス事業の推進役であった柴田彰が矢野市政の後継者として新市長になった。後継者指名については、「矢野さんは、退任するに当たり次期市長を指名するということで動かれ、周囲もその指名には従うということがほぼ了解されていたのではないか。」との経緯があった(前掲「矢野市政に加わって」)。

木戸浦隆一市長
 しかし、柴田市長は、任期半ばで突然、辞任を表明し、木戸浦隆一新市長が誕生することになった。まさに、函館再生へ船出する新市長の課題は、「民活市長・財政再建・人員削減・経済活性化・組合と議会」のキーワードによく表れているように硬直化した市政の再構築であった。財政危機再建の課題は、類似団体に比べて突出した人件費であり、一方、市の貯金としての財政調整基金の減少、借金の度合いを示す公債費比率の上昇、土地売却の限界などの現実との対峙であり、昭和61年1月に策定された「行財政健全化推進要綱」が継続されることになった(昭和61年5月14日付け「道新」)。
 木戸浦市長の1期目の折り返し点にあたる、昭和63年度の予算の特徴は「新時代への模索」を提起していることである。
 そのひとつが、21世紀への基金となる「公共施設設備基金」の設置である。基金新設は、財政再建の立場から打ち出された点に特徴がある。木戸浦市長就任以来、市議会で再三論議になったのが土地売却や競輪益金などの臨時収入に頼ってきた従来の財政運営を見直し臨時収入に頼らない体質改善を目指すことであった。そして、この基金の運用益は当面老朽校舎の改築に利用された。21世紀初頭には市内でも老齢人口が今の倍になり、医療、福祉の対策への膨大な出費で、スポーツ、文化施設、下水道など公共施設設備に予算がとれない事態も憂慮されるための基金である(昭和63年3月27日付け「道新」)。また、「青函博」への出費は、「函館再興」の切り札として単なるお祭り開催の負担にとどまらず、観光はじめ地域経済活性化の火付け役にとの意味が込められていた(昭和63年3月29日付け「道新」)。
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