通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第2節 地域振興と都市計画の推進
1 まちづくりのビジョンと都市経営

昭和30年・40年代のビジョン

「函館圏総合開発基本計画」にみるまちづくり

矢不釆計画の中止と「函館圏総合計画」

交通新時代に向けての「新函館圏総合計画」

まちづくり計画と都市経営の推移

「函館圏総合開発基本計画」にみるまちづくり   P339−P340


矢野康市長
  この報告書を函館市のビジョンとして活用したのは、翌年の選挙で新市長になった矢野康であった。矢野市長は、国のビジョンの「新全国総合開発計画」と連携しながら昭和46年度から10か年の長期計画を『函館圏総合開発基本計画書』にまとめた。この計画書の枠組みとしての函館圏の都市像を「港湾機能を生かした総合的な産業都市の形成へ」「南北海道開発の拠点都市圏へ」「新時代に対応した交通要衝の形成へ」「高度な文化水準を誇る理想的な中規模都市の建設へ」と設定した。
 矢野市政の方向性は、計画策定の基本的態度と共通し、ビジョンの提示、政治と経済の提携、道南の中心都市としての指導的地位の確立、対外的な政治力の強化である。また国、道、市のタイアップによる中央直結型行政をめざしたことは、矢野市政の特色といえるであろう。「函館圏総合開発基本計画」のもっとも重要な事業計画は、港湾機能を拡大し、これに結びつけて臨海工業地帯を造成することであり、具体的には「矢不来計画」であった。この計画は、函館港の未来図の方向性を示唆するものであり、国の第4次港湾整備計画に盛り込まれることが期待されていた(昭和45年9月10日付け「道新」)。
 矢不来計画は、函館湾内の上磯町矢不来地区に505万平方メートルの埋め立て地を造成し(図2−6)、重化学工業中心の臨海工業地帯を実現させようという大型プロジェクトで、基本計画の目玉事業として注目された。昭和47年5月には三菱グループが総額2000億円を投じて石油化学、同精製などの企業を立地することが決まり、既存の日本セメント、アジア石油、函館ドックの移転、北電火力発電所の建設なども具体化しつつあった(昭和47年8月31日付け「道新」)。
 この矢不来計画の意義は、矢野市長によれば「青函新時代を迎えた今日、商業、観光、文教立地や第一次産業育成も大切だが、それだけで地域全体のレベルアップが図られるかどうか。強力な基盤づくりのため漁業サイドだけでなく地域サイドから考えてみたい」とし、市幹部は、「工業による出荷額増と漁業生産高を比較し、小を捨てて大を取る考えだ。工業化による雇用拡大で道南の人口流出を食い止めることができる」と述べ(昭和47年6月7日付け「道新」)、新全国総合開発計画や第3期北海道総合開発計画に共通する「大規模開発プロジェクト方式」の採用に追随した。
図2−6 函館港湾計画図

『函館総合開発基本計画』より作成
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