通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第6節 戦後の宗教・文化事情
1 戦後函館の宗教界

GHQの宗教政策と函館

北海道宗教界の概況

函館の戦後と神社

函館の仏教寺院

戦後における函館のキリスト教

新興宗教の隆盛

戦後における函館のキリスト教   P287−P291


ハリストス正教会にて(昭和20年代末頃、函図蔵)
 GHQの民主化政策のなかで、キリスト教の布教という点では絶好のチャンスがめぐってきたように思われた。マッカーサー元帥は、「キリスト教の寛容と正義という人間関係は、日本占領に当たって降服した敵の処遇を律する一つの政策の基調となる」と語ったという(昭和22年1月13日付け「函新」)。
 函館では、敗戦直後、日本基督教団函館教会の草間牧師が、上陸した占領軍の特別通訳となったり、占領軍の軍医が教会でクリニックを開設するなどということがあった。また、兵士たちが、教会でその年のクリスマスを祝うなどの交流があったことが知られている(『日本基督教団函館教会一〇〇年史』)。
 宗教団体法のもとで、にわかに合同していた諸教会は、同じ信条に立ち同じ機構をもつひとつの教会としての建設が急務とされていた(海老沢亮『日本キリスト教百年史』)。
 昭和21年7月18日付けの「北海道新聞」は、日本基督教団の動きを「三百万円の予算を以て全国に展開される″新日本建設キリスト教運動″が八月末、十勝清水に賀川豊彦、牧野同志社大学総長を迎へて修道会を開くのをはじめ、既に全道各地に小野村・西田牧師等がキリスト教普及の運動をはじめてゐる」と伝えている。函館では8月11日に牧野虎次郎総長による秋季特別伝道集会が開催され、同月19日には賀川豊彦が日魯講堂で講演会を開催した。この時の多数の会衆のなかから、83名が日本基督教団函館教会の扉を叩いたという(『日本基督教団函館教会一〇〇年史』)。
 戦後まもなく、外国の伝道局も新生日本での布教を展開し始め、また教会世界奉仕団を組織して、支援の手をさしのべた。このような中、日本各地で教会の再建が進み、連年1万から2万人のキリスト教信者の増加をみた(前掲『日本キリスト教百年史』)。
 海外からの支援では、アメリカの教会連盟の活動が特筆されよう。昭和22年8月に10名の代表者が来日し、日本の教会の事情を調査して、全国基督教指導者協議会を開催、伝道・教育・社会事業の再建について協議した(同前)。「キリスト教学校調査団一行」の来函、という「北海道新聞」の記事は、この一行のことをさしているように思われる。米国から日本の教会とキリスト教学校調査を目的に派遣された11名の一行中、北海道視察班を担当した3名が昭和22年8月15日、函館八幡宮の祭礼で賑わうなか、函館を訪れ、遺愛女学校、同幼稚園を回った。その視察を終えて、一行を代表してクリーテ博士は「思ったより何もかも大変よいです……何とかして日本の平和な教育の再建に協力します」と語ったという内容である(昭和22年8月16日付け「道新」)。
 なお亀田村にキリスト教農業大学を設置する動きがあったことは、あまり知られていないであろう。この大学の創設構想が取り沙汰されたのは、昭和23年10月14日付けの「道新」においてである。これによれば、亀田村桔梗に創置するキリスト教農業大学は米国のマヂソン大学分校として増設するもので、修業年限3か年で、定員4、50名程度を構想していた。学科として、農業・畜産・看護専攻科、神学・経済科を準備していた。この大学構想がその後、どのように推移して立ち消えになったかは不明である。
 戦争中、不自由な環境に封じられていた外国人宣教師の活動が再開され、新たに続々と外国人宣教師の来日が始まった。太平洋戦争中に米国本国へ強制的に帰国させられていた宣教師のR・Eマックナウントが8年ぶりに夫人とともに函館へ帰ってきたという記事もある。「スパイ嫌疑」をかけられたことも今は昔と忘れ、心新たにマックナウントは再び函館での伝道を誓ったという(昭和24年3月29日付け「道新」)。
 そのほか、米国ポケット聖書協会外交部長がマッカーサー元帥の招きで来日し、聖書の普及運動を開始した。マッカーサーは「日本をキリスト教化するためには三千万冊の聖書が必要だ」と語ったという(昭和24年5月2日付け「道新」)。函館にも、「ポケット聖書」の普及伝道を推し進める一行が訪れ、自動車で市内を一巡し「ヨハネ伝福音書」の小冊子を、通行中の人たちや各学校の児童生徒に無料で配布した。その光景を昭和25年9月22日付けの「北海道新聞」は、「市内で″走る教会″伝道」の見出しを掲げ、写真付きで報じた。
 カトリック関係では、昭和23年4月にカナダの聖ウルスラ修道会が来函、修道院において宗教・英仏語などを女子に教授、日本女子の同修道会への入会者も生じた。昭和25年3月に殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ会が修道院を開設、布教線が強化された。昭和23年6月10日には、湯川のトラピスチヌ女子修道院の創立50周年祭が開催され、そのなかで、「秘境洩れる賛美歌」が矢車草の吹く風に乗って参列者を包みこんだという記事がある。この日の一連の儀式には、宗藤函館市長らも参列し、儀式の風景も写真撮影が許されて、初めて世にでた(昭和23年6月12日付け「道新」)。
 この時期、キリスト教伝道のうえでもっとも強烈なインパクトを市民各層に与えたのは、何といっても、聖フランシスコ・ザビエル渡日400年を記念した「奇跡の右腕」の来函であろう。時に、昭和24年6月27日。聖腕を迎えた元町天主公教会では、約300名のカトリック信徒と、元町高女生、白百合女子高生約800名が出迎え、荘厳なミサを執行した(昭和24年6月28日付け「道新」)。昭和26年6月3日には、仙台教区長を迎えての元町天主公教の年中行事の「聖体行列祭」は、約1000名の信者が集まった厳粛のなかにも賑やかな式典となった(昭和26年6月4日付け「道新」)。

松陰町に移った函館YWCA(函館YWCA蔵)
 キリスト教女子青年会、すなわちYWCAの発足もこの時期の重要な出来事である。遺愛女学校(昭和23年から遺愛女子高等学校)の出身者などを中心に、函館YWCAとして発足したのは、昭和24年10月15日のことである。当初は資金もなく、遺愛女子高等学校の1室を借りていたという。その後募金を募るなどして、昭和26年に現在の松陰町の民家を買い取って移転した(函館YWCA会長星野花枝氏談)。
 キリスト教の布教状況のひとつのバロメーターに「クリスマス」の受容があるが、このクリスマス、実は信仰とは別次元の、コマーシャリズムに乗って広まった嫌いがあった。こんな現実を憂慮してか、聖職者の1人は「日本のクリスマス」に寄せてこんな談話を「北海道新聞」に寄せている。昭和27年12月24日のことである。
 「クリスマスが商売に利用されるのは大変悲しいことです……形ばかりで精神的にはゼロのクリスマスなら、いつそのこと全然しない方がいゝと思います……一日も早くクリスマス本来の姿にもどるか、それとも外国の形ばかりの真似を止めて、日本独自の美しい、ほかのお祭りを守るか。……私はこう思わずにはいられません。」と。
 敗戦後、教会の門をたたいた人は多かったが、教会はその好機を生かせず教勢は期待されたほど伸びなかった。そのため、昭和25年に国際宣教連盟総幹事ランソンを迎え、基督教協議会が主催した特別協議会で日本における布教の基本政策が検討された(前出『日本キリスト教百年史』)。函館千歳教会の白川鄭二牧師は、「……戦後のアメリカ一辺倒の時期に、教会には若い人々が群がり集まったが廿五、六年ごろから風向きが変わった、青年たちは信仰を自分自身のものとしてとらえるのに困難していた……大多数の青年はマスコミに、ヤンキー、ゴーホーム等と書かれる様になると教会を去って行った」と回想している(函館千歳教会創立八十周年記念『祈り讃美感謝』)。
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