通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第5節 教育制度の改革と戦後教育の諸問題
2 占領期第2期・3期の教育(昭和23年−27年4月)

新制高等学校の成立

教室の不足と二部授業

児童・生徒の長期欠席と青少年犯罪

北海道および函館の教員レッド・パージ

新制大学の発足

「特殊教育」の進展

北海道および函館の教員レッド・パージ   P260−P262

 戦後教育労働運動におけるターニング・ポイントを画したとされる教員レッド・パージがおこなわれたのは、昭和24年のことである。この年、共産主義の拡張を警戒するGHQの影響のもと、全国各地で共産主義者やその同調者の教員が罷免・解雇されたが、函館の教育界も例外ではなかった。以下では北海道および函館における教員レッド・パージの経過を追うこととする(明神勲「北海道における教員レッド・パージ」1・2・3『北海道教育大学紀要』第1部C第31巻第2号、第32巻第1・2号)。 
 昭和24年11月18日、北海道教育委員会教育長は、26名の教員にたいする辞職勧告を公表した。勧告対象者は、以下の7項目の基準のいずれかに該当するというのが処分の事由だとされていた。
 一、新教育を理解せず又はその促進を阻害する行動のあるもの
 二、教育委員会及び学校長の教育方針に協力せず又は甚しく生徒父兄の信用なきもの
 三、性行不良又は教職員としての体面を失したもの
 四、勤務成績不良なるもの又は甚しく指導力を欠如するもの 
 五、教育基本法第八条第二項に抵触するもの
 六、極端な反民主主義的思想その他により児童生徒に影響ありと認められたもの
 七、服務規律違反せるもの

7名の追放を伝える記事(昭和24年11月19日付け「道新」)
 この発表の際に、同時に明らかにされた地域別の辞職勧告対象者の数でとくに注目されるのは、函館の数の大きさである。函館の被勧告者は7名で、他の7市の各1名、石狩支庁の4名をトップとする支庁別の勧告対象者の数を大きく引き離している。これらの被勧告者に対しては、受諾か否かの回答が求められ、受諾の場合には、依願退職となり、拒否の場合には、「官吏分限令」により休職処分に付され、休職期間の満了後に、退職させられるものであった。諾否いずれの場合にも、強制退職ということになるのであった。
 勧告拒否者に対する休職処分の発令は、11月26日におこなわれたが、辞職勧告発表の際に示された「教職不適格者調査基準」の性格は、勧告の客観性、合法性を装うためのもので、その実は、レッド・パージの本質を隠蔽するものであったことが明らかにされている。函館の被勧告者7名のうち1名は退職、6名は休職となったが、これら6名の人たちはほかの4名とともに、教育委員会審査請求をおこなった。しかし、処分取り消しは実現せず、判定書の受理を巡る曖昧さを残したまま、終結したといわれる。さらに、函館の5名が北教組の支援のもとでおこなった裁判所への提訴も、札幌地裁判決、札幌高裁判決、最高裁判決のいずれでも訴えはしりぞけられている。
 このように進められた教員レッド・パージの北海道、とくに函館の教育に与えた影響は、大きなものがあったといわれる。函館で追放にあった人たちは、当時の教職員組合運動の指導者たちであって、函館支部は、北海道教職員組合内では北海道大学支部と並んで、民同(民主化同盟派)的な路線に対抗していた支部といわれ、その指導者が追放になったことは、その勢力が失われたことを意味するのである。
 また、この時期に、教労(日本教育労働者組合)・新教(新興教育同盟準備会)、生活綴方運動など戦前の教育運動に携わった教育家を中心に組織され、戦後の民主的、科学的教育の確立に指導的な役割を果たした、日本民主主義教育協会(「民教協」)函館支部の活動にも大きな影響があったといわれている。校長や、教育に熱心な教師を広範に組織し、全国でも最大の支部といわれた民教協函館支部が、その指導者の追放で、1年間という短期の活動で消滅を余儀なくされたことで、函館のその後の民間教育団体の発展も阻まれたといわれている。
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