通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第2節 地方自治の民主化と市政
3 逼迫する市財政と市役所の棟構改革

敗戦直後の市財政

昭和21年11月の機構改革

市勢振興第1次計画書

敗戦直後の市財政   P141−P143

 昭和20(1945)年8月15日に突然敗戦を知らされた市民は、茫然自失したが、戦争が終わった安堵感が出てくると、敗戦に導いた指導者に対する批判あるいは責任の追及という動きが出る一方で、占領軍が強調した民主主義化ということに人びとが関心を示すようになっていった。しかし、悪化する食糧事情と急速なインフレーションが進むなかで、毎日が明日の生活への不安がつきまとう状態が続いた。「北海道新聞」は、国鉄労働組合の調査結果をもとに労働組合員家族の1か月の生活費は4人家族で700円余りの赤字(収入545円に支出が1246円、主食費がほぼ収入に匹敵し、さらにその9割が闇買い)とその生活苦の状況を伝えている(昭和21年6月5日付け「道新」)。
 市役所も、急激なインフレのなかで、適切な対処法を探る日々が続いた。歳費決算額でみると、いわゆる一般歳出総額(当時は経常部と臨時部に分かれていた)は、戦時体制下の昭和15年度の約333万円が、戦局が厳しくなった19年には約577万円、敗戦の年の20年には一躍2倍近い1020万円となり、臨時警防費に一般歳出総額の22.7パーセントをつぎ込んでいた。敗戦によって警防費負担は必要なくなったが、インフレの波はさらに高くなり、一般歳出合計額は21年で2480万円となり、22年では1億1166万円と4.5倍にも膨れあがった。さらに昭和23年には4億4500万円、24年には7億1200万円、25年には9億4074万円となり、昭和20年の約94倍となっていた。このため市財政の逼迫度は極限に達し、昭和25年から3年間歳入に次年度からの繰上金を計上することとなった。25年度は6300万円弱(歳入総額の6.7パーセント)、26年度は1億4560万円弱(同じく12.2パーセント)、27年度は6300万円余(同じく4.6パーセント)であった。これは市税収入の落ち込みも大きく影響している(『函館市史』統計史料編参照)。
 市役所も市民も悪戦苦闘している時、「北海道新聞」は敗戦後1周年の日に「あの日から満一年忘れ難い八・一五の終戦の日が巡りきた、ポツダム宣言受諾の大詔を涙と共に拝して敗戦の混乱と絶望の底から再起を誓ひ、民主的平和国家へひたむきな努力を続けてきたこの一年間−あらゆる封建的な桎梏から解放されたよろこびの中にも、食ふこと生きることの苦しみを身にしみて味ひ、苦難の道を歩んできた」と総括している(昭和21年8月15日付け「道新」)。その6か月後、「北海道新聞」は「函館市政の示唆」と題した「社説」で、「政治も、また多難な世相を反映して多難である。困苦に満ちた政治に敢然として挑戦する熱情が今日ほど高く買われねばならぬときはない」と述べて、道内各都市の自治体にこの政治的情熱が喪失していることを痛烈に指摘した。そこでは、「市理事者の官僚的無能振りとか、市吏員の低劣な組織については、しばらくおき、自治行政がどうあるべきかという肝心な方向だが、まるでついておらない。極端にいえば、もつとも民主的なるべき政治行政の主体が、その民主的あり方にもっとも困惑し、ぼう然自失して、ただ徒らに大衆の批判の矢面に立つて非能率的な仕事を機械的に反復しているというのが一般的な今日の姿だ。清新溌剌として市町村民の心のうちに、その生生しい息吹を広く培養して行かなければならぬ末端行政機構が、未だ封建的な腐れ縁の鎖をひきずりつつ民主政治の逆コースを歩んでいることは、日本の大衆がもつ不幸の一つである」と言い切っていた。このようななかで市民が市政に参画する理想が、後に述べる企画委員会、函館山保勝委員会、港湾委員会となって現われて活発な動きをみせている函館市政の方向性に期待を示していた(昭和22年2月14日付け「道新」)。
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