通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第2節 地方自治の民主化と市政
3 逼迫する市財政と市役所の棟構改革

敗戦直後の市財政

昭和21年11月の機構改革

市勢振興第1次計画書

市勢振興第1次計画書   P147−P150


昭和20年代末の函館市庁舎
 坂本市長が急逝した後、彼の後継者となったのは函館に助役としてきてまだ1年に満たない宗藤大陸であった。昭和22年11月4日まで助役として市長職務代理者を勤め、翌5日の選挙では無所属で出馬、民主党・社会党・自由党の各函館支部、北海道民主連盟、函館市役所労働組合連合会の推薦を受け、対抗馬は共産党公認の岩崎武雄1人であった。選挙結果は宗藤の得票率は93.1パーセントであったが、棄権率は「選挙棄権率七割五分強……全国的にみても最も低調だった栃木県の参議院補欠選挙の際の七割四分を上回るものである」と報じられた(昭和22年11月6日付け「道新」)。4月の統一地方選挙の市長選がほとんど坂本市長の信任投票といえる選挙であったが、投票率は59.9パーセントであったのと比較すると好対照であった。宗藤市長は当選第一声で「これ(当選の栄)は全く故坂本市長の御功績の反映でありその偉大な人格に改めて敬意を表するとともに追慕の念ひとしお新たなものがあります。……故坂本市長の遺された市政白書の精神をくむと同時に私は私なりの独自の理想を着実に織込むことです、もっと率直にいえば難しいことは抜きにしてやりたい事から手順良くやることです、たとえば−文化国家、文化都市という言葉が使われている。これを身近な方面から実践することで、約束の時間を守らぬ人は文化人でない、……私が率先して示したい、約束を守ることをさらにいい変えれば現在の食糧事情を絶対より良く解決したいのです、遅配七十日の間に全市民が一升百円の米を食い継いだとしても、約十四億円になり、これに時間と労力をプラスすれば天文学的数字になりましょう、私は市長の責任として是非これをより良くして市民生活の文化的安定、市政の健全をはかる用意があります。函館市を明るくするためにはビンボーを無くしなければならない」と語った。また、「棄権率七割五分五厘のかげに私への無言の反対が秘められているとは考えません、むしろこの人達は絶対私を支持してくれたと信じます、異論ないことは賛成なりと確信しなければ政治を預かり得ないからです」と積極的に受け止めていた(昭和22年11月7日付け「道新」)。
 ところで敗戦1年後の日に「北海道新聞」は、郷土再建へ向けて「函館の現況を展望」をしているが、第1番目の項目が函館再建の基本をなす「都市計画」で、続いて政治、経済、文化、社会、輸送がまとめられていた(昭和21年8月15日付け「道新」)。坂本市政を受け継いだ宗藤市政も身近な食糧確保に奔走しながら「都市計画」には力を入れていた。坂本市政の新都市計画の骨子は、(1)鉄道旅客桟橋の有川波止場移転、(2)亀田村、上磯町合併を前提、(3)市中央部を元七一部隊付近(現千代台公園)とし、同地域に市庁舎を建設、(4)桟橋駅、中央部に環状交通路の建設、であった(昭和22年2月16日付け「道新」)。

宗藤大陸
 しかし、昭和24年正月には、「市政十五ヵ年計画の構想」という正月向けの理想案が示されたが、国鉄側が臨港工業地を全面的に活かすことを受け入れたため、旅客桟橋の移転はなく、また亀田村、上磯町合併問題も進捗しない状況で、「十五年後(昭和三十九年)には現在二四万の函館が五〇万の人口にふくれているはずだ−という事を基準に夢と現実とを織りまぜて描かれた十五ヵ年計画」は、「これだけの夢でも予算は一兆円になると市当局はうそぶいている」というものでしかなかった(昭和24年1月6日付け「道新」)。
 翌25年、この出発にあたって宗藤市長は、「ことしこそ市政整備再建の第一年である」と語っていたが、「ことしの市政を顧るならば不振のうちにその一年を終わつたといわなければならない」と評していた(昭和25年12月28日付け「道新」)。
 昭和二十六年九月十日、宗藤市長は「函館市勢振興審議会規則」を公布し、「市勢振興審議会」を設けた。二十六日に宗藤会長から副会長に高木直行、相馬雄二を、委員には助役以下一九名の委員と六名の顧問が委嘱された。審議会は「市是」を定め、当面第一次五か年計画を樹立して、昭和十四、五年ころと同等の経済力を挽回することを目途とする市勢振興計画を練った。『市勢振興第一次計画書』の「凡例」にあるとおり、産業経済面は現実本位に計画即行を建前とし、二十七年三月二十八日の最終総会で原案を承認した。「港湾都市の理想を実現し、もって産業と文化の興隆を期する」との「市是」をうたった『市勢振興第一次計画書』は二一〇ページ余に及び、総論に始まる各章は港湾、漁業、工・興業、商業、農業となっており、産業振興の五か年計画に力が注がれた。市民への公表は半年後の十月で、「ユートピアへの雄大な構想 究極目的は文化都市創造」と紹介され、「七重浜貯木場の設置、農漁業の科学化など具体的な新機軸」と位置づけられているが(昭和二十七年十月十八日付け「道新」)、現実本位という視点からか「住みよい都市建設」では、「人口は二十五万人程度を理想とし田園都市創設を最適とし、このためには公営住宅による指導、会社工場の社宅建設推進を必要としている」と実人口に近い人口が設定されている(第二章第二節参照)。
 ただ、宗藤市長は、昭和三十年四月の選挙で吉谷一次に破れ、計画の途中で市長の椅子を降りている。
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