通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第2節 地方自治の民主化と市政
2 市長候補者公選

市長選出方法が注目される

労働組合などが主導権

公選方法決定

候補者の推薦と選挙結果

候補者の推薦と選挙結果   P137−P141

 6月1日、5月31日付けで市長を退職した登坂良作から市長代理となった吉谷一次助役に事務引き継ぎがおこなわれ、同時にこの日から市長候補者立候補届出の受け付けが開始された。この日届け出たのは自薦の高橋忠春(明治32年生まれ、雑貨商)候補と社会党函館支部、北海道民主連盟推薦の坂本森一(明治16年生まれ、無職、元函館市長)候補の2人であった。社会党函館支部は共産党函館地区委員会、民主主義実践連盟、函館地区労働組合協議会との協同戦線を申し合わせていたが、ここにきて突如戦線を離脱し、独自候補を擁立したものであった。6月10日の「北海道新聞」によると、社会党推薦の坂本森一の出馬は、事前調整が十分でなかったことをうかがわせ、「目下宮岸十次郎氏が上京交渉中である、坂本、宮岸会談が順調に進めばいいが若し坂本氏に市長就任の意思なしとすれば、社会党支部は面目上苦しい立場に置かれる事は必死である」と報じ、さらに「当選第一主義を標榜する社会党として坂本氏を推した事は一応うなずけないでもないが、勤労階層とはかけ離れたと考えられる坂本氏の担ぎ出しに対しては各方面から批判されてゐる……保守戦線に対し民主戦線が果敢な闘ひを挑む今次市長選挙がこのやうに民主戦線内部に意見の相違を来したことは大いに反省さるべきである」とコメントしている(昭和21年6月10日付け「道新」)。
 共産党函館地区委員会などは、あくまでも勤労大衆の基盤に立つ候補を推すべく会合を重ね、沼武夫(明治40年生まれ、富岡鉄工所常務取締役)候補を推薦することに決定、8日朝届け出た。届出最終日の10日になって、登坂良作前市長(明治24年生まれ)も川島甚蔵、小川弥四郎、小林宇三郎らの推薦で立候補を届け出て、候補者が出揃った。なお坂本森一は東京都在住のままの立候補で、被選挙権者は市内現住とした公選規定に抵触するように思うが、立候補が認められているのであるから何らかの救済措置がなされたのであろう。
 6月16日、市内57か所の投票所で投票が実施された。「受付締切から投票日まで僅かに五日間しかなかったこと、窮迫する食糧事情の折柄買出しには好条件の休日が二日続いたこと等の悪条件により当初五割以上の棄権が憂慮され」ていたが、有権者総数9万9266名に対して投票者数5万7603名、投票率58パーセントで、公選は成立した。選挙結果は、坂本森一 4万5671票、登坂良作 8390票、沼武夫 2373票、高橋忠春 742票、であった。各候補者は当落をよそに選挙有効を喜ぶ心境を語っていた(昭和21年6月17日・18日付け「道新」)。

市長選の投票風景(昭和21年6月21日付け「道新」)


坂本森一市長(昭和21年11月29日付け「道新」)
 「函館市最初の市長公選 坂本氏圧倒当選」「けふ、推薦方法を協議」、と報じられたが(昭和21年6月18日付け「道新」)、社会党函館支部は早速支部執行委員会を開催、食糧対策、衛生問題、教育問題、隣接町村合併問題、港湾問題、平和産業の迅速なる再開を柱とする構想を策定し、勤労大衆を基盤とする函館市政民主化への具体的要望とした(同前)。
 6月18日、市政協議会が開かれ、協議会として正式に坂本森一へ当選を通知し、坂本へ資格審査書の提出を要請した。その後内務省の資格審査を経て8月7日付けで内務大臣より函館市長に正式に任命された。新市長は同月9日青函連絡船で着任、「今回函館市民各位の熱烈なる御支持によって再び函館市長に就任することになったが身に余る光栄であり感激してゐる。この上は献身函館市のために努力し市民諸氏の誠意の萬分の一にもむくひたいと思ってゐる。」との第一声を発した(昭和21年8月10日付け「道新」)。公選による初の市長の誕生であった。
 資格審査がおこなわれていた昭和21年7月、東京都制、府県制、市制、町村制の一部改正法案が衆議院に提出され9月に成立した。地方公共団体の独立性が強められた改正で、府県知事、市町村長は住民の直接選挙で選ばれることが法的に認められたわけである。また、これらの者の罷免および地方議会の解散などを請求する権利も認められ、選挙管理委員会や監査委員などの行政委員会が設置された(亀掛川浩『地方制度小史』)。
 つまり函館市民の努力で実行された市長公選は、市長就任の翌月、国の法律で整備されたのである。翌昭和22年、地方自治法が施行されるが(日本国憲法と同じ5月3日の施行)この改正の趣旨が取り入れられている。
 「北海道新聞」はこの年の12月24日に「函館一年の回顧」を連載しているが、「市政」については「混迷に民主化の道探る、見のがせぬ市長公選の意義」とし、次の矛盾した2点を看過できぬと、「一、内務省指示にさきがけての市長公選」「二 市会議員選挙の延期」を掲げてこの年を総括した(昭和21年12月24日付け「道新」)。

 即ち戦時中からの市長が盛り上がる市民の総意によって七月に民主的に更迭されたに拘わらず十月改選期にあつた市議がずるずるに延期したため二者の意気が何かにつけて融合せず不明瞭な空気を醸成しているということで、これは現市会の形成性格が多分に翼賛市会建設連盟の息吹き濃いということによつて一段と抜きさしならぬもののようである、大半の市議は″市民の代表″との強い自負に基づいて言行しているが、かつての″国民の代表″代議士が戦犯で追放されているきびしい現実はかかる甘い考えを決して許容できないのであつて市政が正道に乗るのは明春の民主的改選後であることは間違いはない。
 このような前提条件のもとにこの一年を回顧すると虚脱と昏迷の余韻が未だ強かつた上半期においては食糧事情の逼迫ひどく、外に労組結成を主体とする民主団体の胎動を聞きながらも市政の主点は食糧確保にかけられ、市議をもつて構成する食料対策委員会並に名士録から抜擢した食料対策協議会等が生誕をみた、後者は貨幣切換えその他の事情で有耶無耶になつたが前者の産地出荷奨励などは幾分の効をとどめた、登坂前市長は六月引退し七月市長公選が行われた、之は全道のトップをきつたというだけでなく函館市政にとつてまさに歴史的な意義をもつものであった。
 四候補の立起は保守、民主の戦いにからむ繊細な政治性を内包したが、開票の結果一方的勝利に終わり幾多の示唆を投げた。市民自らの手で市長を選定したことは自治史を書換えたことで之をモメントとして函館市政が新世代へ輪転した事実は否定できぬ、新市長は八月就任した、新旧助役は十月更迭した、市役所の機構政策は十一月断行された、豊穣という天恵的好条件に際会して坂本政治は如上の基礎工事を通じ着々と当市の商港化及び観光化へ指向されたのである、市政も国政の一環として考察されねばならず国政が政党政治化しているとき市会の同化も必然の宿命というべく、そのきざしは既に本年後半期における市議の政党分裂に現れた、市政民主化は市長公選でやつと緒についたので十月一日から実施された改正市政と共にその意味では重要な一年であったと言い得よう。

「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ