通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第2節 地方自治の民主化と市政
1 第22回衆議院議員選挙と函館の対応

民主化に着手

衆議院議員選挙法の改正

政党の復活

婦人参政権問題

乱立する候補者

選挙結果と函館

選挙結果と函館   P127−P129


選挙広報活動(昭和25年)
 投票日の4月10日、函館は良い天気に恵まれ、市内18か所(17の国民学校と水産専門学校)の投票所で選挙が実施された。投票率は「五割を下るまいと予想された婦人有権者の棄権は案に相違し」、「函館の婦人棄権率二割七分」、と「北海道新聞」が報じたのは(昭和21年4月11日付け「道新」)、女性の棄権防止に尽力してきた新聞の勇み足だったようだ。残された資料を見る限り函館の投票率は表1−14のとおりで、棄権率は男26.7パーセント、女40.9パーセントで、ともに1区の平均値を上回った。当選者14名は表1−15のとおりで、札幌市からの立候補者6名、空知支庁から4名、小樽市から2名、後志支庁から1名、道南からは自由党の平塚常次郎だけが当選を果たした。この結果を「北海道新聞」は、依然として旧勢力への支持と保守的色彩が濃厚な政治動向を物語っていて、投票も政党や政策を基になされるのではなく、「地盤、看板、鞄」、と昔どおりの動きが踏襲されている点からも、さらに政治への関心を深めることが強く期待されると総括していた。道南地区では平塚1名のみの当選で、富永、宮岸、鎌田、米沢、幡野、川村、館のいずれもが2万から3万の票を獲得しながら「共喰いの弊を暴露し道南民自体も地元候補を擁立する郷土的意識の薄弱さ」があった。地元候補者が道南の狭い地域に「濫立し跼蹐(きょくせき)し依存しすぎたうらみ」があったことは、地元候補者の演説会の開催数が他の候補者より総計で17回も下回って250回に過ぎなかったことにも現れていた(昭和21年4月15日付け「道新」)。たしかに道南の立候補者は道南だけで選挙戦を展開していた。当選した平塚常次郎が、道南地区では4万3737票を獲得しながら、札幌市では5850票に過ぎなかったし、北海道共産党の書記長武内清は、函館の労働者間に相当の支持を得、演説会の聴衆も他を圧して断然多く、選挙人気の中心といわれたにもかかわらず、その武内の函館市での得票(2306票)は、同じ共産党で札幌市から立候補して当選した柄沢トシ子の函館市分の得票(4552票)の半分ほどであった。加えて札幌市での得票は武内526票、柄沢6535票と優劣を争う域にも達していなかったことに、この総選挙の特徴がよく示されていた。「社会、共産両党が大衆の政治意識の啓蒙に果たした役割の大きさに比して多くの効果をもたらさなかった」といえる(昭和21年3月28日付け「道新」)。この点をはじめて選挙権を行使した女性の投票行動からみると、4月15日付の「北海道新聞」投書欄「論塔」に掲載された「総選挙を検討」という一文は問題の一端をえぐりだしていた。女性候補者の大得票は、政治と台所を結ぶ熾烈なる政治意欲から出発した大衆的支持ももちろんその一部を占めてはいるが、その大部分が所属政党の識別も、政権の可否判断もなく、ただ、「婦人なるが故に」の1票と「女は女へ」の合言葉からほとんど無批判に、「無自覚の婦人層」によって投ぜられたものだったとする、この投書は、「民主主義の進む可き又採る可き道であるならば、婦人に参政権を与えるのも宜い。然し参政権の何たるかを徹底し得ず、婦人の政治教育、啓蒙運動を怠った所に今次総選挙の不合理制を完全に暴露した」、とやや一面的に女性候補者の得票の伸びの理由が述べられている。実際、道南地区で知名度も高いとみられていた武内清が、道南地区で柄沢とし子の半分ほどの票しか得ていなかったことは、すでに述べたとおりである。
表1−14 第22回衆議院選挙北海道第1区・函館市投票率
区分
有権者
投票者
投票率
棄権者
棄権率
1区
460,042
342,570
74.5%
117,472
25.5%
536,481
335,598
62.6%
200,882
37.4%
996,523
678,168
68.1%
318,355
31.9%
函館市
41,260
30,231
73.3%
11,029
26.7%
51,801
30,601
59.1%
21,200
40.9%
93,061
60,832
65.4%
32,229
34.6%
昭和21年から昭和40年『選挙白書』(函館市選挙管理委員会)より作成
表1−15 第22回衆議院議員総選挙北海道1区当選者
得票数
氏 名
新旧
党派
住所
109,879
有馬英二
無所属
札幌市
88,994
北勝太郎
日本協同党
空知郡
69,418
新妻イト
日本社会党
札幌市
67,919
苫米地英俊
日本自由党
小樽市
67,621
平塚常次郎
日本自由党
東京都
60,006
岡田春夫
日本社会党
空知郡
59,446
正木清
日本社会党
札幌市
50,419
椎熊三郎
北海道政治同盟
小樽市
50,029
地崎宇三郎
北海道政治同盟
札幌市
48,018
東隆
日本協同党
札幌市
44,140
柄沢とし子
日本共産党
札幌市
43,398
北政清
日本協同党
雨竜郡
40,880
小河原正信
日本自由党
虻田郡
39,990
香川兼吉
日本協同党
樺戸郡
『北海道選挙大観』より作成
注)定員14名 立候補者71名
 女性の投票率が67パーセントで、79名の女性立候補者中39名が当選するという総選挙の結果は、予想以上の「意外な結果」と受けとめられた。女性運動家が提唱した「台所の政治」(婦選獲得同盟のスローガン)は、「家庭の福祉に効用=参政権効用論」にとどまり、以後選挙法の変更もあって、女性代議士を増加させる展開へと結びついてはいかなかった。昭和30年の第27回衆議院総選挙までの女性の立候補者も当選者も減少一途の傾向にあった(表1−16)。
 一方、道南の水産業界を代表する形で当選した平塚常次郎は、日本自由党の北海道支部長(函館支部長も兼任)となり、幣原内閣辞職後の混乱のなかで5月22日に組閣された吉田茂内閣の運輸大臣に就任、日魯漁業(株)の社長を辞任した(副社長の河野一郎が12月に社長となるが、翌年公職追放となる)。北海道から誕生した初の大臣であった。しかし、昭和22年1月4日に公職追放令が改正され、追放範囲が地方および企業に拡大されると、平塚は1月31日に運輸大臣を辞任した。4月15日に日魯漁業のおもな役員の追放が決定され、平塚も追放となった (第1章第3節参照)。このため道南地区出身の衆議院議員はいなくなったのである。それだけに戦後早々の道南地区の「政治力」という点では、「政治力」の羽ばたきという印象は薄らいでいったように思える。
表1−16 衆議院議員選挙女性当選者調
区分
第22回
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
選挙日
S21.4.10
S22.4.25
S24.1.23
S27.10.1
S28.4.19
S30.2.27
候補者数
79
85
44
24
22
23
当選者数
39
15
12
9
9
8
当選率
49.4
17.6
27.3
37.5
40.9
34.8
自治庁選挙局『選挙年鑑』(昭和28−32年)より作成
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