通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第2節 「高度経済成長」下の光と陰

成長を支えた北洋漁業とイカ珍味加工

様変わりする街と暮らし

都市の変容と模索

成長を支えた北洋漁業とイカ珍味加工   P28−P29

 北洋漁業の再開は、函館の経済に活気をもたらした。そのため函館市をはじめ関係者の多くがそのさらなる発展を期待した。しかし、北洋漁業の再開からわずか6年目にして、北洋サケ・マス母船式漁業の前途に大きな不安を抱かせる出来事が起こった。すなわち昭和31(1956)年にソ連が発表した「ブルガーニン・ライン」の設定である。このライン内における海域では(372頁図2−17参照)、サケ・マスが産卵場に向かう時期(5月15日から9月15日)は同海域でのサケ・マスの漁獲を制限し、この海域における昭和31年度の日本のサケ・マスの漁獲量を50万ツェントネル=5万トン(約2500万尾)に制限するというものであった。このソ連側の決定は、昭和27年北洋漁業の再開以来、日本の漁業者が北洋海域で乱獲に乱獲を重ねたことに対するソ連側の対抗措置であった。さらに同年5月15日に「日ソ漁業条約」が締結された。この条約は年間のサケ・マスの総漁獲量や各海域ごとの投網反数・網目の制限などをおこなったもので、以降は毎年開催される「日ソ漁業委員会」で漁獲割当量と規制措置が決定されるようになった。こうした体制のなかでソ連側の日本に対する規制は次第に強化され、日本側の出漁体制は縮小していかざるを得なくなったのである(第2章第3節1)。
 とはいえ、上述のような規制にも関わらず昭和30年代から40年代にかけて、北洋漁業によってが函館市が受けた経済的効果は非常に大きかった。母船の出漁時期や切揚げ時期には、乗組員のほか家族など送迎の人びともやってきて、まるでお祭り騒ぎのような光景が繰り広げられた。とくに盛り場や商店街には北洋漁業従事者を「歓迎」するビラが貼られ、風物詩となっていた。数字のうえからみても、函館市における北洋漁業の物資調達状況は、毎年増え続け昭和49年にはおよそ70億円と最高潮に達したのである(379頁、図2−20参照)。
 戦後の函館の経済は北洋漁業のみによって支えられていたわけではなかった。先にもみたように、敗戦直後の函館経済の復興は、イカ釣り漁業、とくにイカを原料としたスルメの加工業の発展による側面が強かった。函館におけるスルメ加工業は、昭和20年代に急成長を遂げ、28年頃には全盛期を迎えた。しかし昭和20年代末から30年代にかけて道南産スルメの主要な輸出先である台湾・香港・シンガポールなどの東南アジア地域のうち香港において韓国産のスルメが台頭してきたことや、昭和30年にはイカが大凶漁に見舞われたことなどもあって、スルメ一辺倒の生産体制は大きな矛盾に遭遇するに至った。こうした問題を打開したのがイカの珍味加工である。イカの珍味加工には、イカの燻製・輪イカやさきイカの加工をする乾燥珍味加工と、イカ塩辛や松前漬などを製造する濡れ珍味加工の2つの分野があったが、スルメイカ加工が衰退した後に大きく成長してきたのが前者の乾燥珍味加工であった。そしてこのイカの乾燥珍味製造業の発展を支えたるうえで大きな役割を果したのもまた、スルメイカ加工の発展と同様に主婦を主体とした女子労働力であった(第2章第3節2、3参照)。
 平成元年(1989)、函館市がイカを「市の魚」として制定したことは、高度経済成長期以降の函館経済にとってイカが果たしてきた役割がいかに大きかったのかを象徴的に示している。

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