通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第2節 「高度経済成長」下の光と陰

成長を支えた北洋漁業とイカ珍味加工

様変わりする街と暮らし

都市の変容と模索

都市の変容と模索   P36−P38

 これまでみてきたように、「高度経済成長期」に、都市函館は大きな変容を遂げた。それに続くバブル経済の破綻、長引く経済不況という環境のなかで、函館市の人口は減少の一途をたどっている。昭和59年以降の人口減少は、(1)北洋漁業の終焉をはじめ、昭和40年以降の国鉄の相つぐリストラと63年の青函連絡船の廃止による国鉄職員の解雇および離散、(2)昭和52年以降の函館ドックの経営悪化による従業員の相つぐ解雇や、それによる離散、(3)函館市域から近隣の上磯町・大野町・七飯町への転住者の増加、C平成3年(1991)のバブル経済の破綻とそれに続く経済不況という諸要因がおもな理由であろう。
 最大の変化は、北洋漁業の縮小と終焉によって、西部地区が火が消えたように急速に衰退したことである。母船式サケ・マス漁業にとって決定的な打撃となったのは、昭和52年に、米ソ両国が200カイリ漁業専管水域を設定するに至ったことであった。ソ連側による規制のほか、さらにアメリカも操業禁止区域を拡大していき、日本漁船が出漁できる海はどんどん小さくなっていった。こうして昭和27年に再開された北洋での母船式サケ・マス漁業も63年にはついに1船団43隻のみの操業となると同時に、母船会社はこの年を限りに母船式サケ・マス漁業から撤退した。翌平成元年(1989)には独航船側が母船をしたてて出漁したが、函館港を基地として出漁したのはこれが最後となった。こうして北洋漁業の基地としての函館の役割は名実ともに終わったのである(第2章第3節参照)。

長崎屋の人通り(昭和57年)
 これと並行してJR函館駅前の大門地区の商店街が次第に衰退し始めたのに対し、亀田市との合併を大きな契機として人口が東北部に移転し、五稜郭地区や旧亀田市の中心地域であった美原地区が新たな繁華街として発展した。昭和44年、西部地区にあった丸井デパートが五稜郭地区に移転したことをはじめ、昭和56年の西武デパートの五稜郭地区への進出、昭和55年の長崎屋・イトーヨーカ堂の美原地区への進出などは、こうした動向を象徴するものであった。しかも昭和60年代には五稜郭地区に短期間で飲食店街が形成され、函館市の繁華街・飲食店街は、あたかも大門地区から本町・五稜郭地区に移動したような状態となり、こうした傾向は年々顕著になっている。  
 昭和37年以降、函館市は、北洋漁業の将来に不安を抱き新たな将来計画を立案してきた。函館市・上磯町・大野町・七飯町・亀田町・銭亀沢村による「函館地方総合開発計画」である。この計画の中心的目標は、函館市を「工業生産都市」へと体質改善するところにあった。その後、昭和45年に『函館圏総合開発基本計画書』を策定し、函館市の将来像を「港湾機能を生かした総合的な産業都市の形成」、「南北海道開発の拠点都市」、「新時代に対応した交通要衝の形成」、「高度な文化水準を誇る理想的な中規模都市の建設」として描いたが、この計画のなかでもっとも力を入れたのが港湾機能の拡大と、これと連結した臨海工業地帯の造成で、それを具体化したのが上磯町矢不来の埋め立て計画であった。しかし、この計画は上磯町の漁業者を中心として海面埋め立て反対運動が繰り広げられたため、昭和48年に断念することになったのである。しかもこの年は、皮肉にも第1次オイル・ショックによって高度経済成長期が終わりを告げた年であった。

西部地区の街並み
  これを大きな契機として、以後函館市の新たな街づくり計画は、「工業都市化」や「経済開発」を重視したものから市民の「生活環境」を重視したものへと方向転換をしていった。なかでもその後の街づくり計画で特徴的なことは、函館山の自然保護と歴史的環境の活用を主軸にした観光政策に大きな力を注いでいったことである。その代表的な事例をあげると、旧北海道庁函館支庁庁舎の修理と再利用、旧函館区公会堂の保存修理と一般への公開をおこない、昭和63年には「函館市西部地区歴史的景観条例」を制定して西部地区の歴史的建造物の保存と修理を進めながら、平成7年に「函館市都市景観条例」を制定し、全市的な都市景観の形成を推進するに至ったことである。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ