函館空襲 P1284−P1286
太平洋戦争の終結もま近い昭和20年7月14、15日の両日、東北・北海道地方はアメリカ海軍機動部隊の攻撃を受け、本州と北海道を結ぶ青函連絡船の基地でもある函館市は大きな被害を受けた。
昭和20年に入って次第に激しくなるアメリカ軍の日本空襲には、北海道と本州以南とで決定的に異なっている点がある。それは、後者の青森を北限とする本州・四国・九州方面の空襲が、もっぱらマリアナ諸島を基地とするアメリカ空軍のB29爆撃機によって行われたのに対し、同機の航続距離の関係もあって、7月中旬の北海道空襲は、青森県沖の太平洋上に進航したアメリカ海軍の艦載機によって行われたことである。ただし、同20年5月下旬以降、B29による北海道方面の偵察飛行はしばしば行われた。
いま、『青柳国民学校日誌』(『地域史研究はこだて』第10号所収)により、同年5月末以降の警戒警報発令状況をみると、次のようになっている。
六月二十七日 午前十一時過突如空襲警報発令
函館上空ヨリ札幌室蘭地区偵察後釧路帯広地区、他ノ一機ハ海上ヨリ室蘭内浦湾上空津軽海峡等偵察午后一時過脱去午后二時過全域ノ警戒警報解除サル
六月二十八日 警戒警報
十二時四十五分頃発令十三時五十分頃解除サレタリ
敵大型機壱機津軽海面ヨリ室蘭地区等偵察
六月二十九日 警報発令
正午頃警戒警報発令続イテ空襲警報トナル 児童ハ警戒警報ニテ全部直チニ帰宅セシメタリ 函館地区通過室蘭上空ニテ同高射砲隊及友軍機ニテ之ヲ攻撃敵機ハ黒煙ヲ吐キツゝ逃走
午后一時五十分頃警戒警報解除サレタリ
翌6月30日にも、正午に警戒警報が発令され、「敵大型二機」が倶知安地区・室蘭地区の偵察を行ったとある。
7月に入ると、2日午前に「津軽海面警戒警報」が発令され、「敵大型二機大湊上空旋回中」との防空情報が入った。同3日の日誌に、「夜直 午前一時十五分(四日)半鐘点打ニ引続キ警戒警報発令 敵二機一目標ハ函館ヨリ札幌室蘭反転札幌ニ至リ再ビ室蘭ヲ経テ脱去他ハ恵山ヨリ室蘭札幌反転内浦湾上ヲ旋回シテ脱去其ノ間空襲警報待避合図等アリ警報解除ハ午前二時五十七分ナリキ」と記されている。なお日誌には、「爾後ハ敵、友軍機ヲ間ハズ爆音ヲ耳ニシタル場[合(脱カ)]ハ警鐘ヲ点打スルコトトナリタル由」との付記がある。
その後、7月9日午前10時15分にも警戒警報が発令され、B29、1機が「倶知安地区ヨリ東北進」した。同夜午後11時6分、再び北海道地区に警戒警報が発令され、「敵大型二機室蘭南方海面ヨリ室蘭地区ニ侵入北進倶知安地区ニ至リ更ニ札幌ヲ経テ小樽湾上空ヲ旋回再ビ札幌地区北東部ヲ経テ深川、旭川ヲ偵察、反轉三度札幌地区ニ侵入、更ニ小樽湾倶知安地区ヲ南下内浦湾上空ヲ南下シテ午前一時十五分東南方洋上ニ脱去」した。
以上みてきたように、6月末以降7月上旬にかけて米軍機による北海道方面の偵察活動は活発を極めたが、これらの動きは、来るべき北海道方面への空襲の予兆であることを函館市民は感じていたのである。これより先7月1日、フィリピンのレイテ湾を出港したアメリカ海軍の機動部隊は、7月10日に関東地区を攻撃した後さらに北上を続け、7月13日には青森県尻屋岬の南東約100海里の太平洋上に設定された発進海域に到着した(以下、防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』昭和56年、青函連絡船戦災史編集委員会『白い航跡』1995年による)。
アメリカ海軍の機動部隊は3グループで編成され、エセックス級大型空母やインデペンデンス級軽空母など合計13隻の空母が配備されていた。そして、第三八・一任務群は、北海道東部の飛行場と船舶攻撃および艦砲射撃部隊の支援、第三八・三任務群は、東北北部の飛行場と津軽海峡内の船舶攻撃、第三八・四任務群には北海道南部の飛行場と船舶攻撃という目標が与えられていた。
7月14日早朝、太平洋上の空母から発進したアメリカ軍の艦載機約2000は、各々の目標に向かって一斉に攻撃を開始した。その状況を、前記の『青柳国民学校日誌』は13日の当直欄に次のように記している。
午後十一時五十分東北地区空襲警報発令トノ連絡
徹宵警戒中ナルモ異常ナク十四日午前四時五十分頃大湊情報聴取直チニ全員配置ニツク
五時十八分頃敵艦上戦闘機当市上空ニ出現校舎銃撃セラレシモ異常ナシ
午前中の攻撃に続いて、午後1時43分頃にも警戒警報、さらに空襲警報が発令され、3時15分頃には「奉安殿側非常口壁に機銃弾を一発受く屋上にも弾痕らしきものあり」、4時20分ようやく空襲警報が解除された。
また、市立函館図書館の『市立函館図書館日誌』の7月14日の条には、「空襲警報 午前五時頃発令仝四十分頃遂に本市に侵入せる敵機(小型)は機銃掃射を以て攻撃し来れり、被害民族館東側硝子窓一枚及陳列欄硝子一枚破壊、天井に二箇處の弾痕を認む。本館異状なし。警戒警報解除午后五時」と記されている。
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