通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
1 黎明期の社会・労働問題

日露戦争と函館労働事情

大逆事件と冬の時代

友愛会函館支部の結成

友愛会函館支部の結成   P1064−P1066

 明治末期、社会・労働運動の一時的な低迷の時期があったが、明治から大正時代に入るにつれて独占資本の力が強まった結果、日本の産業構造は急速に変貌を遂げるようになり、一方、労働者階級の増大によって新たな社会運動の担い手が成長するようになった。すなわち、大正3(1914)年から7年まで続いた第1次世界大戦は日本に空前の好況をもたらし、その結果、国内産業は未曾有の経済発展を遂げた。そして、このことにともなって大戦終了時には日本の工業生産額は農業のそれを上回るようになった。ただし、第1次世界大戦中、北海道は「雑穀ブーム」に沸き、まだ農産生産額が工業生産額を上回っていたが、大正末になると後者の方が増大した(奥山先掲書)。こうした中で函館は北海道移民の出入口として、早くから北洋漁業や関連産業の発達した都市として、小樽、札幌とともに産業の中心地として発展していた。
 大正4年から10年にかけて函館市内に設立された主な工場を挙げると日本製缶、関鉄工所、ライオン油脂函館工場、東洋ゴム、北海道ゴム、北海道漁網船具、東洋製麻などがある(奥山先掲書)。函館におけるこのような産業活動の活発化は人口の増加をもたらした。大正14年における東北・北海道内の主要市町村人口をみると函館市(16万3972人)は札幌市(14万5060人)、仙台市(14万2895人)、小樽市(13万4470人)を上回っており、函館は北海道だけでなく東北を含めても最大の都市地域を形成していた。
 このような時代背景の中で次第に労働運動をはじめとする社会運動が民衆の中にふたたび目覚め始めた。これをさらに押し進めたのが大正デモクラシーとよばれるデモクラシーの主張と擁護の運動で、その運動の先頭にあったのが「友愛会」などの労働運動の高まりであった。
 友愛会は大正元年8月、キリスト教的人道主義者鈴木文治の指導のもとに設立されたが、その性格は労資協調主義の立場に立つ労働者の共済・親睦団体であった。しかし、労働争議の調停に係わったことから、次第に労働組合としての性格を明確にし労働者の中でその権威を高め、大正10年には日本労働総同盟へと発展した。こうした中で北海道の労働運動も再び活発化し、大正3年6月、日本製鋼所室蘭工場の三木治朗・山川孝一・松岡駒吉らによって友愛会室蘭支部が創立、続いて4年12月9日には友愛会函館分会が結成され、翌5年4月には友愛会々長の鈴木文治が函館をはじめ全道各地を遊説している。函館分会は、大正6年8月までは存続が確認されているが、活動の詳細は不明である。なお、分会責任者は小糸浅次郎であった(『新北海道史』第4巻)。
 大正中期になると北海道の労働運動も労資協調主義的な組合運動から脱皮するようになった。大正6年3月、日本製鋼所室蘭工場において友愛会支部が中心となり、賃金値上げを要求してストライキが引き起こされた。この争議は、この後北海道各地で勃発する労働争議の引き金となった。
 函館においても大正7年5月1日、日本郵船株式会社函館支店のはしけ人夫250人が賃金の引上げを要求してストライキに入り、同月4日に終わったと伝えられているが詳細は不明である(5月9日付「函日」)。大正中期から昭和にかけての民衆運動の高揚は、続く大正7年の米騒動によってもたらされるのである。函館の労働・社会運動は米騒動以後、活発に展開されるが、明治末から大正初期の時期はその呼び水となる社会・労働問題の黎明期であった。
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