通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
1 黎明期の社会・労働問題

日露戦争と函館労働事情

大逆事件と冬の時代

友愛会函館支部の結成

大逆事件と冬の時代   P1063−P1064

 明治30年代半ばから末にかけて函館では、社会主義思想などに関心を持つインテリ層を中心に平民新聞読者会が組織され、活発な会合が重ねられていたことは、先述した(第4編第13章第4節「社会労働問題」『函館市史』通説編第2巻)。
 ここで明治末の社会運動について触れる時、函館とは深い緑のある石川啄木について述べておく必要があろう。
 石川啄木は明治40年5月に来函し、同年9月までの約4か月間、函館に住居を構えた。その後、札幌、小樽、釧路において新聞記者生活を続けたが、「文学的運命を極度まで試験する決心」(「書簡」)は強く、在道約1年後の明治41年4月に上京を決意し、北海道を去った。啄木の在函時代には、「函館平民倶楽部」の活動はすでに停止状態にあり、啄木との特別の交流は確認されていないが、啄木は小樽において翌41年1月4日、「社会主義演説会」に出席し、先述の西川光二郎の話に耳を傾けている。啄木は西川らの思想に共鳴し、日記に「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣」「今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、其を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る」(「明治41年日誌」)など、社会主義への関心と理解を急速に高めた(加藤悌三『石川啄木論考』)。この後、晩年の啄木が辿った一連の行動から最後に到達した啄木の思想が何であったにせよ、その背景には頻発する労働争議とそれを解決する手段としての社会主義への関心が社会一般に高まっていたことを物語っている。
 明治43年5月、明治政府は社会主義者が天皇の暗殺を企てたとし、幸徳秋水をはじめとして数百名を検挙、翌44年1月、非公開裁判で幸徳ら24名を「大逆罪」で処分(12名が死刑)した。いわゆる「大逆事件」が引き起こされ、これを機に民主的潮流にも弾圧が及んだ。また、「社会」と名のつく一切の書物が発禁になるなど、この事件は明治末期の初期社会主義運動・労働運動の沈静に大きな影響を与えた。
 石川啄木がこの事件に当時の識者としては誰よりも強い関心を持ったことは、良く知られていることである(岩城之徳『石川啄木伝』)。啄木は44年1月初め、大逆事件の担当弁護士平出修から幸徳秋水の「陳弁書」を借用して書き写し、また平出宅で7000枚17冊に及ぶ特別裁判記録の一部を読み、この事件について日記に「幸徳秋水等陰謀事件」と記した(「明治四十四年当用日記補遺」)。啄木は、この事件が社会主義者への弾圧事件であり、明治末年の日本社会が「冬の時代」とも呼ばれる「時代閉塞の現状」(明治43年8月執筆)に陥っていることを鋭く見抜いていた。
 こうして幸徳秋水らが投獄処刑された「大逆事件」以後、明治末期の初期社会主義・労働運動は弾圧と圧迫を受け、一時、急速に衰退していった。
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