通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
2 米騒動と労働者の状態

米騒動と函館

労働者の状態と不満

米騒動と函館   P1066−P1067

 第1次世界大戦を経て発展した日本資本主義は、都市内部において労働力の再生産を行えるようになったが、そのことは農産物を購入する人口の増大と農業の商品化をすすめることになり、米の需要を増大させた。しかし、戦前における日本資本主義の特質は農村内部に寄生地主制度を抱えていたため農業発展が遅れ米需要に追いつかなかったこと、加えて大正7(1918)年のシベリア出兵を見こして米商人による軍用米の買いだめが行われたことなどを理由として米価の騰貴が進んだ。こうして、大正7年7月末から10月初めにかけて全国で自然発生的に起きたのが、近代民衆運動に新たな地平を築いたと意義付けられる米騒動である。同年8月3日、富山県から勃発した騒動は次第に全国に波及し、1道3府32県へと拡がり参加者は数百万人を数えた。しかし、米騒動の限界は「生活防衛のための自然発生的な大衆行動が暴動化したものであって、組織も計画も存在しなかったこと」であり、これ以後社会運動の組織化が求められる時代となった(労働運動史研究会編集『米騒動五十年』)。
 函館の米価上昇の様子を当時の新聞報道からみると、大正7年3月頃には、米価はすでに「記録破りの高値」となり、一等米が2年前と比較して1升17銭8厘が31銭に高騰している。さらに米騒動が起きる頃には白米一等1升の小売価格は、37銭5厘(7月20日)、49銭5厘(8月3日)と急騰している(「函毎」)。
 このような米価の急激な値上がりに対して区役所では、8月16日から米の廉価販売の対策をとった。1日の販売量・価格は国産米200俵・1升35銭、外国産米300俵・1升20銭で、1人の購入量は5升以内と限定されている。販売場所は区役所に続いて、同月17日高砂小学校、18日住吉小学校、19日幸小学校、20日宝小学校各所で行われた(8月16日付「函新」)。また、函館において米価は翌8年まで上昇しており、「米価狂騰。六月二十五日小売一升五十四銭・七月十四日は五十七銭五厘になり、翌十五日には一升六十銭」にまで上がった(7月15日付「函新」)。
 米価の上昇による社会不安と米騒動の発生は、米を消費する都市労働者が増大したことを意味している。それまでは各企業は労働力の給源をもっぱら農村部に求めていたが、都市部でも一定程度確保することができるようになった。このことはまた、近代的労働者の成長とその組織化が歴史的課題となってきたと言うことである。なお、米騒動によって函館では59人が検挙されたと記録されているが詳細は不明である(函館市史編さん事務局『函館市史年表草稿』)。
 そして、この米騒動以後、わが国の社会・労働運動は組織的戦闘的な性格を帯びていった。

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