通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
2 米騒動と労働者の状態

米騒動と函館

労働者の状態と不満

労働者の状態と不満   P1067−P1070

 大正8年に入ると函館においても「労働問題は大河の決するが如き勢いでひたひたと各地資本家および労働者の身辺に迫りつつある」と労働問題が社会問題化しつつあることが報じられている。「最早労働問題は労働者自身、資本家自身の問題でなくてはならぬ。函館における労働者側の団体友愛会支部ではこうした自覚の労働者約二百五十名を有し穏当なる主張の下に自ら覚めゆく旅程を辿っている」と、この後の労資の対立を予測させる状況が生まれていた(7月13日付「函日」)。友愛会函館支部に結集する労働者の中にも次第に労働者意識を持つものが登場してきたことをうかがうことができる。
 当時の函館の労働者はいかなる境遇におかれていたか。「函館の労働者の賃銀と物価のバランスは何時になったら取れる日が来るか」「腹さへ脹れたら生きて行かれる犬や猫が増しである」との見出しで一般的な労働者家族の生活を伝えている新聞記事を紹介しておきたい(7月25日付「函日」)。

 函館の鉄工を標準として賃錢と生活費の関係を調査して見ると凡そ次の如くである。彼等は普通午前七時から午後五時迄十時間の労働で報酬は技術に依り一円二十銭から二円五十銭位まであり(古い職工は割に安いとの不平あり)一円四五六十銭の日給が大部分を占めてゐる。一円五十銭を平均とし一月二十五日働くものとすると月三十七円五十銭の収入となる。夜業をすれば一時間日給の一分を支給するが、之は不定期だから勘定に入れられぬ。妻帯して一戸を構えてゐるものが七分で下宿住まひの独身者が三分と云ふから前者を標準として其の生活費を勘定する。中には子供が二三人ゐる所もあらうが、最低額を算出する為めに夫婦と四五歳の子供一人の家庭と仮定すると先づ三等白米一ヶ月に三斗時価一升五十六銭五厘の計算で十六円九十五銭、次に魚が一日二十銭として六円、青物が一日五銭として一円五十銭、漬物が一円、醤油一升五合と積り一升八十銭の割で一円二十銭、味噌一貫目入用一円、其の外塩と砂糖で先づ一円、木炭は一俵あると三ヶ月もあるさうだから俵三円として一円、薪が一円、家賃八畳と四畳半二間の長屋で最低五円、電燈料七十五銭、お湯銭一円、男は月二回の散髪で六十銭、妻君の丸髷は六回はコワれると云ふし子供も時々クリクリにしてやらねばならぬから都合一円五十銭と見る。夫から水道料、戸数割、衛生費、夜番、其の他親戚、知人の交際費を合して三円、足袋に下駄、夫から三人分の衣服の月割を五円とする。工場でバット、内では刻みを吹かすとして一円、其の外に仕事用の草履二足五十銭、足袋一足六十銭、浅黄の洋服が三ヶ月で駄目になるから月に一円五十銭、全部合計五十円五十銭、之は最低の見積額で唯飢と寒暑を凌ぐ丈の話。人間は動物とは違つて腹が膨れてゐる丈では生きてゐられないもの。殊に残業抔して疲れ切つて帰つてきた時は芸者のお酌で鰻の蒲焼は食はなくともいゝから嚊に一杯注がせて陶然となり都々逸の一つも唄はぬと翌日の元気が回復せぬし、又偶には妻子を携へて寄席の一つも見せてやらねば家庭は旨く治まつて行かぬ、此の小便やお神酒代を入れるとどうしても月に六十円は無いと苦しい。三十七八円で生活が出来る道理がない。皆夜業をするとか細君が仕立物とか豆撰工場通ひ等の内職援助でやつと暮を立てゝ行つてゐる。戦争前に比較すると賃銀は八割よりか上がつてをらぬのに物価は総平均十四割高く、主食物の米は実に三十五割も暴騰してゐる。抑も値上げ要求をなす者か非か!生んとする意志はしかし弱いものではない。此物価と賃銀のバランスが取れる迄は此種の運動は引続いて起るであらう。

 この新聞記事に見られるように労働者の不満は何よりも生活費の上昇とそれに対して賃金上昇がおぼつかないことによる労働諸条件の悪化にあった。そして、欧米から見ると極めて遅れていた前近代的な労働条件の改善が急がれていた。
 天井知らずの物価騰貴による労働状態の悪化により大正8年の7月頃から各職場で主に賃上げを主要課題とする労働条件改善のストライキが頻発し出した。
 まず、7月19日函館駅貨物扱請負業丸辰組の定傭夫ら人夫約百人が賃金値上げを要求してストライキに入った。労働者側の要求は、「賃金の支払い形態は月給とは言うが実際は休日を差し引いた日給と同様のものであり、皆勤者の月給は平均四十五円、その他に臨時手当として十円の合計五十五円支給」されるが、これを「実際の月給制度にすることと六十円に引き上げること」というものである。会社の丸辰組ではこの要求を拒否したため人夫側は「同盟休業」に入った。会社側は「多大の損害を与へた」ことを理由にストライキの指導者8名に対して「解雇と本日までの給料は一切支払いせず」ことを通知した。このため人夫側は同月21日、大森の稲荷神社境内に集合しストライキを続けたため、会社側は「来月より五円増額」することを約束しこの争議は治まった(7月21日付「函日」)。
 この争議が各雇用主に与えた影響は大きく、ある鉄工業主の中には職工の要求する前に賃金の引上げを行ったものも出ている。加えてこの争議には人夫を直接指導する現場の管理人の封建的な指図に対する不満という側面もあったという。
 また、同じ7月19日、函館船渠製罐部職工全員が賃金4割増額を要求しストライキを、続いて10月には函館船渠職工150人が賃金値上げを理由にストライキを行った。さらに函館専売局でも「大蔵本省の増給運動に」呼応し、「休盟の色あり」とまでになったと報じられている(10月10日付「函日」)。
 そして、この頃になると中央の友愛会本部も労資協調的な労働運動から脱皮を計らざるを得なかったように、函館においても次第に組織的また意識的な労働争議が起きるようになった。函館船渠、函館燐寸会社、函館鉄工業職工の労働者は賃金引上げと並んで「八時間労働制」を要求するようになり、欧米並の労働条件の改善を主要課題として掲げるようになった。
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