通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係
3 函館とロシア・ソ連の関係

ロシア帝国時代の領事と領事館

市民とロシアの関係

最後の帝政領事とロシア革命の勃発

査証官の来函とソ連領事館の開庁

亡命ロシア人たちの暮らし

北洋漁業とロシア語通訳

ロシア語刊行物とロシア語関係団体

ロシア帝国時代の領事と領事館   P1032−P1034

 函館のロシア領事館は明治6年以降実質閉鎖状態で、その後はエリニツキ(El'nitskii)副領事代理が同11年に、シリペンバック(Shlippenbakh)副領事が同14年に、一時的に来函しただけであった(「在本邦各国領事任免雑件(露国之部)」外交史料館蔵)。また同12年にロシアホテルが閉館になると、在留ロシア人は皆無に等しかった。明治5年、東京に公使館が置かれたので、それまで函館が果たしてきた役目も終わりを告げたのである。
 同20年になって、ド・ウォラン(G.A.de Vollan)領事が任命されたが、籍は函館においたまま、帰省中の長崎駐在領事の代理に赴き、25年まで不在が続いた(同前)。その後任として26年から函館にウスチーノフ(M.M.Ustinov)副領事が着任、これによって本格的に活動が再開されたといえよう。その理由は、露領漁業の勃興にある。もっともウスチーノフ自身は5月頃から半年ほど駐在し、冬期間は東京の公使館へ引き揚げるという体制であった。不在中はロシア語に堪能な書記官の笠原与七郎に事務を委託した。領事の仕事の中心は漁業関連事務にあり、日本人漁業者への対応や、税関など官庁からの情報収集も行っていた。当然これらの情報は本国へ送られ、対日漁業政策に反映したものと思われる。
 さて、その後益々露領漁業は盛んになり、基地としての函館の位置付けも高まった。明治32年にはロシア人の会社、セミョーノフ商会が進出するほどであった(2章5節を参照)。このような状況に応じて、それまでところを定めず、臨時的に事務所を開設していた領事館も、本格的な施設を建築する運びとなった。明治33年着任した副領事ゲデンシトローム(M.M.Gedenstrem)は同35年に船見町125番地の1129坪を8203円94銭で購入した。民間人からの購入であり、外人名義では所有ができなかったため、999年間の借地という形式で、便宜上日本人名義で契約された。これが原因で後年、敷地に関して裁判沙汰になったことは後述する(3章5節)。
 領事館の設計は最終的に横浜在住のドイツ人ゼール(R.Seel)のものが採用された。そしてその設計に基づき、明治36年6月に工事が始まった。ところが、翌年2月に日露戦争が勃発し、領事は引揚げ、工事請負人も退去を命じられたのである。未完成の領事館は東京のフランス公使に管理が委託され、そのまま戦争集結を待たざるを得なくなった(ロシア帝国外交史料館所蔵資料)。
 戦争後はロシア領事館の誘致をめぐって、沿海州との交流を意識した小樽、新潟、敦賀も運動を展開したが、実現しなかった。函館は明治39年5月に再開されている。新任の副領事トラウドショリド(Trautshol'd)は早速、未完成の領事館の工事再開に奔走し、この年12月に工事は完了した(同前)。ところが、翌年の大火に被災し、わずか8か月にして大金を投じたこの壮麗な建物は灰塵に帰してしまったのである。
 しかし新築領事館の焼失後、即座に再建が始められたのをみると、いかに函館が重要視されていたのかがわかるであろう。この工事が完了するのは明治41年12月であり(明治41年12月19日「北タイ」)、これが現在まで続く建物だが、大火で焼けたものと酷似しており、ほぼゼールの設計を踏襲したものといえる。
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