通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係
3 函館とロシア・ソ連の関係

ロシア帝国時代の領事と領事館

市民とロシアの関係

最後の帝政領事とロシア革命の勃発

査証官の来函とソ連領事館の開庁

亡命ロシア人たちの暮らし

北洋漁業とロシア語通訳

ロシア語刊行物とロシア語関係団体

ロシア語刊行物とロシア関係団体   P1043−P1046

 函館で出されたロシア語刊行物も紹介しておこう。加藤一徳は明治45年4月に全編ロシア語による『函館案内』というガイドブックを出版した。東京で印刷された本編32頁・広告24頁のかなり立派なものである。長崎でもこのようなロシア語ガイドを出していたが、それにしてもこの時期にロシア語刊行物を出すような都市は珍しかったに違いない。
 また昭和3年には「週刊函館」というロシア語新聞が創刊された。ほとんど漁業・経済関係の記事で構成された商業紙で、週に2度の発行であった。ただし翌年からは毎日発行となった(市立函館図書館には昭和4年3月1日発行分までが保管されている)。新聞とはいっても体裁ははなはだ簡素なものである。なおこれとは別に日本語版もあり、これは週に1度の発刊でやはり日露関係記事で構成されている。発刊の辞によれば、この新聞の使命は「日本立国の精神は常に高唱するものであるが、他面露国の主義制度に充分の理解を持ちこの両国を経済的に結付け唇歯輔車の関係に置いて、世界の経済市場に両国の確固たる地位を築かしめる」というものであった。当時の事情から、内容の如何に関わらずロシア語出版物といえば、官憲からは相当に警戒されたに違いない。
 本紙の編集兼発行者は竹内清といって、函館では演劇界の指導者的立場にあったものとして知られていた。大正15年から昭和3年までは大阪朝日新聞の通信部に入りハルビンにいた。そして帰国後この新聞を発行したのである。昭和3年1月、日ソ漁業条約が調印され、函館にはソ連国営漁業会社も進出しており、ロシア語新聞の需要を期待したのであろう。しかし経営難から昭和4年5月に新聞社は解散となった(造田瑠璃子氏所蔵資料)。
 アルハンゲリスキイも新聞を出していたらしい。新聞といってもそのタイトル(「日本出版物一覧」)からして、一般紙ではなかったと思われる。彼は帝政時代には漁業監督官として活躍したが、革命後函館に来てから、自らカムチャツカ漁業の経営にあたっていた。しかし、成功には至らなかったようである。彼がいつからいつまで新聞を出したのかはわからないが、昭和5年12月、北海道庁長官は次のような報告を行っている(「外国人本邦来往並在留外国人ノ動静関係雑纂ソ連人ノ部」外交史料館蔵)。

露国人経営新聞社
新聞紙名     オブゾール ヤポンスコイ プレツスイ
発行所      函館市仲浜町一五 アルハンゲリスキー商会
主幹者ノ国籍氏名 ソヴィエト人 ワシーリー ワシーリウィチ アルハンゲリスキー
最近ノ経営状況  現在邦人記者二名ヲ雇ヒ広告料其ノ他ニテ月収三百五十円位ニテ発行部数約三十部、主トシテ本国及本邦内ソヴィエト公館其ノ他国営機関ニ配布シツゝアリ、主幹者領事館其ノ他ト連絡シ国情偵知ノ疑アリ注意中

 彼も亡命後にソビエト国籍を取った1人であろうが、この新聞からはあまり収入を得られなかったらしく、生活は困窮を極めたようだ。昭和8年に日魯漁業株式会社嘱託となったが、同14年に病死した。後述するように(3章5節)その遺産が亡命ロシア人の相互扶助団体の基金になったことを考えると、ソ連国籍は放棄していたと考えられる。
 大正初期、時勢の要求から函館には日露貿易研究会、露領漁業貿易研究会、対露同志会、露領漁業権保全会などの団体が相次いで設立された。大正3年3月に設立された露領漁業貿易研究会の会長は高井義喜久といい、神田の正教神学校を卒業してから、露領漁業に携わっていた。露領水産組合の副組長をつとめ、その代表として漁業交渉のため渡露するなど、ロシア語の力は抜群であった。同組合を辞職し、それからこの研究会を発足させたようである。
 この会の機関誌として同年5月に「露領漁業貿易時報」第1号が発行されている。中にはロシアの官報、新聞、雑誌に発表された漁業・貿易・交通・経済などの記事が翻訳掲載され、また文芸欄もあって、ロシア小説の翻訳が紹介されている。創刊の趣意など数頁のロシア語頁もみえる。第2号(同年7月刊)には、創刊についての各界からの寸評が寄せられており、「東京朝日新聞」は、「露領太平洋沿岸における邦人の漁業西比利亜満州に於ける邦人商工業の発展に関する唯一の雑誌」と讃えている。会員は、函館、東京、ロシア極東の漁業家や貿易商を中心に露国大使館や正教会司祭など、150人ほどが登録している。この雑誌は第3号まで市立函館図書館で確認されているが、以降は不明である。高井自身は大正5年には大阪で日露貿易の仲介業を開業しているから(高井家所蔵資料)、その前に廃刊になったのだろう。
 昭和2年、函館のロシア語通訳は優に100人を越えていたが、団結の機運が高まり、函館通訳組合の結成が目指されることになった(昭和2年3月14日「函新」)。そして昭和4年1月、「北洋同志会」が結成されたのである。
 名誉会長に坂本作平(漁業家)、会長に奥本佐太郎(ルイボプロドクト支配人)、顧問として小熊幸一郎(海産商)、進藤慎太郎(日魯漁業)、末富孝次郎(函館製網船具)、寺西準一(発起人、ロシア語通訳)が選出された(昭和4年1月14日「函毎」)。昭和14年では正会員のロシア語通訳だけでも239人を数え、賛助会員、顧問・評議員などを入れると総勢319名という数字になる(『北洋』第10号)。本来の目的として会員相互の親睦、扶助を謳っているが、ある種圧力団体としても機能するようになっていくのである。例えば時代が下がるごとに関係が悪化する日ソ漁業問題に関連して、度々日本政府に陳情書や声明書を出している。
 因みに同14年の正会員の住所と勤務先をみてみると、住所では函館及び近郊が8割を占め、あとは満州、東京などが数名ずつである。勤務先は漁業合同で大会社となった日魯漁業が171人と圧倒的に多く、全体の7割を占める。彼らの経歴は、仲間うちでは「尼古来(正教会系)、哈爾濱(ハルビン学院)、外語(東京外語)、大阪(大阪外語)、それにこれに属さないプラクチカント派」と分類されており、プラクチカント派、すなわち学校出でない人は数も多いがその実力は玉石混交だったという(『北洋』第8号、昭和13年)。当時のロシア語通訳の実態は斎藤一郎氏の回顧談に詳しく描かれている(「ロシア語通訳の見た北洋漁業」『地域史研究はこだて』第14号)。
 北洋同志会は定期刊行物として雑誌『北洋』を、昭和4年以降毎年1回ずつ出していた。第6号(昭和10年5月発刊)からは2回となったが、市立函館図書館では第6号から11号まで(9号欠)を確認できる。内容は国内外の外交や漁業に関する時事問題という専門的なものから、ロシア語通訳者たちの体験談や随筆、俳句、そしてソビエトの文学や映画スポーツの紹介までどれも充実したものばかりである。
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