通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第8節 諸外国との関係
3 函館とロシア・ソ連の関係

ロシア帝国時代の領事と領事館

市民とロシアの関係

最後の帝政領事とロシア革命の勃発

査証官の来函とソ連領事館の開庁

亡命ロシア人たちの暮らし

北洋漁業とロシア語通訳

ロシア語刊行物とロシア語関係団体

市民とロシアとの関係   P1034−P1035

 日露戦争以後日本はロシアと協調的な関係にあったが、とりわけ函館は非常に親露的な雰囲気があったように思われる。函館経済の基盤をなす露領漁業が、ロシアとの友好なくしては存続できないことを市民が肌で感じていたからであろう。
 一例をあげれば大正5年、第4回日露協約が調印された時の様子である。7月17日、市中は戸毎に日露の国旗が掲げられ、各小学校の約1万人の児童が小旗を持って万歳を唱えながら練り歩いた。その夜はロシア副領事レベデフ夫妻を主賓に公会堂で祝賀会が催されたが、宴を盛り上げた芸者衆のなかにはロシア語を勉強しているものもいたという。さらに19日夜には商工連合会主催で、提灯行列も挙行された(同年7月17日「函新」、7月18日「函毎」)。
 しかし、市民はお祭り騒ぎするだけで、積極的で建設的な対露関係を目指していないと、当時の新聞が指摘している。祝賀も結構だがまずは函館の「多年の宿題」ともいえる「露語学枚の設置」などを考えたらどうか、露領漁業家連が多少奮発すれば不可能ではないと論じられた(大正5年7月10、14、21日「函毎」)。だが結局露語学校も実現せず、時代がもう少しさがってからでも、心ある市民はこの点を憂慮しているが、これはあとでふれたい。
 さて、明治末から大正年間において、実際に市民がロシア人を身近に感じるのは、春から秋にかけロシア義勇艦隊所属の船が入港することであった。ウラジオストクとオホーツク沿岸やカムチャツカ半島沿岸の港湾を結んで、定期的に就航していたこれらのロシア船は、その途中に函館に寄港するのである。その度に函館には乗組員のロシア人や朝鮮人が降り立ち、様々な経済的効果がもたらされるのであった。商店の看板にはロシア語が書かれ、店員も多少はロシア語をあやつった。ロシア貨幣の両替店も幾つかでき、西川町に軒をならべた古着屋は大繁盛であった。このようなロシア人との接触は、様々なエピソードを生み出しているが、ここでは亀井勝一郎の思い出を引用して、雰囲気を伝えよう。

…彼らはまづ子供に人気があった。桟橋に上陸すると直ぐウオツカを飲む。桟橋の上で十人ほど腕を組み、輪になって踊る。誰かが手風琴をならす、その大騒ぎが朝から夜中までつづき、次第に街から街へ氾濫して行くのだ。子供達がその後を負う。すると人の好さそうな水夫達は、子供を抱きあげ濃い顎髭をすりつけて幾度も接吻し、ツアーのマークのついた銀貨や銅貨を与えた…(亀井勝一郎「白系ロシア人」『月刊ロシヤ』4−11)。

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