通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

2 昭和前期

昭和初期の新しい職業と就職戦線

労働運動に参加する女性

電話交換手の職場改善運動

女工・出稼ぎ女工たち

各種婦人団体に集う女性たち

遊廓・カフェーなどで働く女性たち

銃後で働く若い女性

路面電車の車掌・運転手

国鉄で働く女性

昭和初期の新しい職業と就職戦線   P992−P995

 大正デモクラシーは多くの問題を残したまま昭和を迎えた。大正15年の12月25日、改元した昭和元年は1週間で終わり、明けて2年、昭和初期の金融恐慌に世界恐慌が拍車をかけ、企業倒産・解雇で失業者は増大し全国各地でストライキが頻発、特に中小企業における争議が激しかった。女子労働者にとって、昭和4(1929)年7月の改正工場法施行による深夜業の禁止は待たれた朗報ではあったが、労働条件が低下し労働強化につながる場合もあった。農村は悲惨で農産物の暴落に昭和6年の凶作飢饉が拍車をかけ、東北農村を中心に親子心中、娘の身売り、欠食児童が続出し、生活防衛のため小作争議は急増した。都市と農村を問わずガス・水道・電灯などの値下げ運動も広がり、家計補助や経済的自立を目的に求職する女性が増えた。男性より低賃金で雇えるため女性は歓迎され多くの分野に進出し、カフェー・バーの女給なども急増した。これらサービス業で働く職業婦人の増加は不況のどん底に在って享楽的風潮を助長した面もあり、気がつけば全面的に戦争時代に突入していたのである(東大出版『日本女性史』5)。
 函館の新聞は「職業紹介所を設けて失業者救済に努める。都市と云わず農村といわず失業者殖える」(昭和2年5月2日付「函新」)と書き、大学出の男性でさえ就職の難しい時代であったが、函館の女性たちも家から出て様々な職種に挑戦していた。地元各紙から新しい職業を拾ってみよう。

エレベーターガール(昭和6年11月8日付「函日」)
 婦人の新職業としてエレベーターガール3人が函館のデパート丸井に出現したと報道(昭和5年11月8日付)した「函館日日新聞」は、翌6年には、22歳のガソリンガールを紹介している(同6年6月13日付)。彼女は午前8時から午後10時まで勤務、公休は第3日曜日で月給は25円。気楽な商売と答えているが、休みが月1回で1日14時間働いて日給換算83銭となり、同6年の代用女教員月俸42円、同5年の日雇人夫(女)の日給平均は94銭であったから、当時としても低賃金かつ長時間労働であっただろう。続いて同紙は森屋食堂のウエイトレスをサービスガールとして紹介している(7月11日付)。彼女たちの休みは月2回、料理サービスのほか、地方からの団体客には観光案内もしたそうである。
 「函館毎日新聞」でも同6年9月1日から「職業婦人戦線」シリーズを連載、新しい職業としてゴルフガール(最近市内で大流行の室内スポーツ、ベビーゴルフがもたらした新職業)、赤バス車掌(森屋がサービスで運行している赤色の自動車の車掌)、映画常設館の女給などを挙げている。映画館の女給は、窓口の切符売りでなく、観客に座布団1枚5〜10銭で売り歩く女性で、その歩合が稼ぎとなったが、固定給の出ない館もあり、座布団を敷かない客もいるから、長時間労働の割りに儲けは少なかったようである。ほかにも、朝4時ごろ市場に買出しに行き、夕方から屋台を街頭に持ち出して夜2時頃まで焼きとうきびを売って1円50銭売ればいいほうと話すキミ(唐黍)焼きガールやカフェーの女給の苦労話なども紹介されている。
 また同紙は翌7年7月には「職業婦人に聴く」を11回にわたって連載している。取り上げている職種は、デパート会計係・美容ガール・電話交換手・カフェーの女給・ゆで卵売り・水屋ガール・会計兼事務員・見番の芸者・球場のゲーム取りガール・タイピスト。「世間の人が『女給』の二字に対して抱いている感じをどう思うか」(7月21日付)という記事もあり、当時同じ職業婦人でも職種によって一般の見方は違っていたことがうかがえる。タイピストは「最もインテリ的でモダンな職業」と紹介している(7月30日付)。なお東京で全国タイピスト組合が設立されたのは大正9年で、組合員は360人だった。
 不景気は女子の中等教育機関への進学や卒業後の動向にも影響を与えた。昭和7年2月、新聞は「不景気で救われる中等教育の試験地獄−市内の諸学校ほとんど定員に足らぬ。特にひどい女子の私立学校」と書き、不景気が特に高等女学校志願者減という形でも現れたことを報じている。また本(6)年度庁立函館高女卒業生217人中、補習科希望者50人、女子専門学校など上級学校志望者10人、就職を望んでいる者は20余人で、大半は家事従事とある(同年3月2日付「函日」)。家事の中には家業の仕事を手伝う者も多かったと思われるが、それにしても明治44年の新聞に函館高女は半ば以上教員養成学校だと書かれた頃とは格段の差といえる。このような傾向を「大学の卒業生さえ就職難の時代を看取してか、自ら進んで職業を探そうという希望者は減少して来ました。…職業婦人となり自活するため上級の専門学校を志願する人も割合少なくなってきたようで…これは誠に喜ばしい傾向で…良妻賢母として大いに内助をすることは婦人に与えられた天職」であると歓迎する教員もいた。
 しかし函館高女の卒業生に進学や就職する人が減少したとは言え、この年、函館高女の217人を含め合計約700人の女学校卒業生があり、その内約6割近くは就職難の実社会に巣立って行った(昭和7年3月26日付「函毎」)。
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