通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

2 昭和前期

昭和初期の新しい職業と就職戦線

労働運動に参加する女性

電話交換手の職場改善運動

女工・出稼ぎ女工たち

各種婦人団体に集う女性たち

遊廓・カフェーなどで働く女性たち

銃後で働く若い女性

路面電車の車掌・運転手

国鉄で働く女性

遊廓・カフェ−などで働く女性たち   P1013−P1014

 明治40年の大火を機に大森町に統一、移転した函館の遊廓は昭和期には私娼やカフェー・バーなどの進出によりその存在をゆるがされていた。雑誌『ミス北日本』は「明治四十年の火災で辰巳の里に移転した当時、業者百二十四軒・妖花七百六十人、昭和九年の大火直前で四十二軒・二百三十人、現在は三十軒・百二十人に減じてしまった」と書き「その現象は全市的にはびこった私娼の跋扈とカフェーやバーのごとき安易な享楽場ができたのと店張りの廃止が主原因であり、…一部の人達の公娼制度廃止の提唱も一因」(昭和12年4月5日付)と嘆いている。公娼制度下、全国に先駆けて廃娼訴訟勝訴という歴史をもつ函館だが、借金を抱えた大森遊廓の娼妓は昭和9年の大火直前で230人(『函館市史』統計史料編では220)、昭和12年日中戦争の始まる直前では120人(前同では136)が働いていた。坂井フタの勝訴以降、娼妓の自由廃業運動は一時期活発化したとはいえ、自由廃業した者は少なかったようだ。大正12年9月、関東大震災で壊滅的な打撃を受けた東京で、「復興帝都に遊廓の復興を許すな」「公娼廃止・奴隷的境遇の婦人解放」をスローガンとして矯風会を中心に活発な運動が展開した(『室蘭地方史研究』29)。その流れをうけて同年暮「函館にも公娼廃止、第一声」(12月7日付「函日」)があがり、翌年には救世軍の山室軍平が来函している。しかし函館の「婦人救済所」(既述)は、大正・昭和期には再建されなかった(『道南女性史』10)。昭和9年の大火のころ「遊廓に売られて来た女性たちを佐々部会長宅にお手伝いとして引き受け、更生させ田舎へ帰した」(前出『函館支部一〇〇年の歩み』)と記されているが、ほんの一握りの女性だったと思われる。
 昭和初期、私娼の増加とともにそこで働く朝鮮人女性が目立ってきた。ある婦人記者は、私娼および朝鮮女性の増加について大森遊廓の「娼妓が…最近三百五十名に減じ誠に喜ぶべき現象を呈した一方私唱(ママ)が限りなく殖えて行くは誠に寒心に堪えません、私娼の出身地を見る時に市内出生は殆んとなく…それに最近著しく増加を示してゐるのは朝鮮婦人で…殊に十四五才の可憐な乙女を多く見受け」、私娼の内「九割九分までは金銭の束縛で抱主のため苦痛を凌んで働いている」(昭和3年12月20日付『ニコニコクラブ』)と書いている。また昭和7年の「小樽新聞」は「立待岬投身は果たして朝鮮酌婦、借金と病気に厭世」(3月17日付)の見出しで、函館市内松風町の料理店で働く20歳と21歳の2人の朝鮮女性の自殺を報じている。
 昭和11年版『函館商工名録』によれば、大火の翌年7月現在で、営業収益税15円以上収めた料理店は51、カフェーは31、旅人宿は22、飲食店は17、仕出しは6とある。いずれも女性の働きなくしては成り立たない職場といえよう。このうちカフェーは大正から昭和にかけての新しい職場であり、年々多数の女給が働いていた。大火の直前に出版された『近代函館』は、料理店の芸者に代わり、カフェー・バーの膨張ぶりを伝え、銀座街にはムサシノ、銀座華壇をはじめ大小100近いカフェー・バーがしのぎを削り、2000人近い女給が働いていると記している。この就職難の時代にカフェーの女給は働き口に不自由しなかったとはいえ、収入はすなわちチップだけの店もあったから、チップの1銭もない時もあり、着物や化粧・髪結い賃などに経費はかかり、世間の目も冷たく、大変だったようである(昭和6年9月8日付「函毎」)。「女給組合は必要だわ。第一クビになった場合に組合がないと困るわ」とか「コックの組合があって女給のがないって法はないわ。小樽にはあるのよ」と話す女給もいた(昭和7年7月21日付「函毎」)。昭和13年には全市のカフェー女給全員を網羅して時局の線に沿った女給矯風会が結成された。目的は、「非常時局柄銃後婦人として事業の強化を図り驕奢華美を慎み品行方正にし常に思想及び素行の善導を図ること」(8月5日付『ミス北日本』)とある。発会式には全員割烹着姿で500余人の女給が集まったという。
 しかし昭和15年4月、道庁保安課は歓楽街に対し全面的に営業時間の短縮を断行した。これに呼応して函館でも遊興営業の時間は制限され、ネオンも廃止、酒も入手困難となって、貸座敷・飲食店・喫茶店・カフェー・興業場の一斉休業が報じられ(昭和15年12月6日付「函日」)、そこで働く女性たちは転廃業を余儀なくされた。
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