通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

1 大正期

進出する女性たち

職業婦人の活躍

本道第一と称された婦人結髪組合

函館病院の看護婦など

収入から見た筆頭・産婆

女教員のガンバリ

女教員の待遇

各分野で奮闘する高学歴の女性たち

各分野で奮闘する高学歴の女性たち   P990−P992

 大正デモクラシーの高揚のなかで函館の女性はさまざまな分野に活躍の場を広げて行った。函館の場合、女子高等教育機関がなかったため、高女卒業後さらに進学しようと思えば、札幌にあった2、3の専攻科に行くか、または海を渡るしかなかった。
 前掲『六十年史』で見ると、庁立函館高女で教鞭を執っていた伊知地さつ・小貫琴・清水サワ・歴史の外村久江などは東京女高師出身であり、大正7(1918)年から16年間修身・家事・茶道を担当した田中(市田)キヨ、大正11年から8年間国語教諭だった永井(山本)幸、昭和4(1929)年から5年間母校で物理化学を教えた外村シズなどは奈良女子高等師範学校出身であった。函館生まれで共に独身を通した外村姉妹のうち姉のシズは函館高女退職後上京して勉学、昭和13年33歳で広島文理科大学を卒業し同年理化学研究所に入所、45歳の時京都大学で理学博士の学位を取得している(『激動期の理化学研究所人間風景』)。彼女を「私たちの一番の光です」と語った村手ユキは、シズと同じ明治38年生まれで、函館高女卒業後大正14年津田英学塾に進学したが、その動機を「大正十二年の関東大震災の時、どんなにお金があっても物があっても駄目になっちゃったんですよ。やっぱり何か身につけなきゃいけないという感じで、父に是非にも学校に行きたいと手紙を書いたんです」と語っている(『道南女性史』4)。明治45年(1912)年から12年間体操を担当した海老沢(代島)チヨは日本女子体育専門学校、大正11年から21年間、共に裁縫教科を担当した佐藤イウと東マスは2人とも共立女子職業学校(共立女子専門学校)出身であった。
 私立の女学校も函館大谷が大正12年高女に昇格したのを皮切りに、昭和4年には聖保禄と函館実践が高女に昇格、遺愛は4年指定校(大正6年)から昭和6年に5年指定校となったが、各校の女教師も、例えば、岡山高女卒業後に東京二階堂体操学校を出て大正14年大谷高女に赴任した武田綾子(昭和3年1月31日付「函日」)とか、津田英学塾を出て聖保禄に勤めた村手ユキなど、多くは東京などで学び資格をとっている。
 ほかにも、弥生小学校卒業後母親と同じく東京の跡見女学校を出て武蔵野音楽学校師範科を昭和9年卒業(函館で最初の卒業生)、函館に帰ってピアノ教授や音楽教育、演奏活動に活躍した佐々木(井上)幸子(『道南の女たち』)、函館実践高女を卒業後、東京女子美術専門学校に入学した細野玉甫、細野西湖姉妹、東京女子薬学専門学校を出て昭和3年から鶴岡町の薬局で働く柏倉ふさ子などがいた(昭和6年3月22日・6月27日付「函日」)。
 大正7年の新聞に「女の職業として函館では最高の位置におくべき」(同年2月15日付「函日」)と書かれた女医は、当時道内に7人おり、そのうち2人は函館の早坂千賀子と槙山きみ子だった。槙山きみ子は明治初期函館育児講を創設した槙山淳道の娘であり、早坂千賀子は同紙に「明治四十一年亀田屋小路に開業したのが当区女医の初め」と書かれたが、2人とも履歴は分からない。早坂は明治42年、区内恵比須町で開業の小児科・婦人科の医者として広告を出している(明治42年9月3日付「函日」)から、大正7年で開業歴10年キャリアのベテラン女医であったといえよう。
 函館病院では昭和2年5月、眼科医に初めて女医を採用した。函館病院の紅一点眼科医と紹介された(昭和6年11月25日付「函日」)伊藤静子は、函館病院では2人目の眼科・小児科の女医として昭和4年12月から2年半勤務した。彼女が退職した後しばらく女医空白期が続いたが、同14年小児科医として女医が、代わって眼科医にも女医が採用され出し、戦争末期の昭和19、20年には、眼科・整形外科・内科・産婦人科・外科と複数採用されて、終戦時には5人の女医がいた(『函館病院百二十年史』、昭和20年8月28日付「道新」)。戦争で男の医者が不足して女性の職場進出を促したと言えよう。
 以上人数的には限られていたとはいえ、高等教育機関である大学が女性に開放されていなかった当時、東京など本州で苦労しながら高学歴を取得しそれを職業に結びつけていった女性たちだった。
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