通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
1 函館文学の誕生と成長

北海道文学の萌芽

苜宿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇

紅塵社・夜光詩社そして海峡社へ

『短歌紀元』から『無風帯』の時代

来函者によって培われた函館詩壇

ホトトギス隆盛の函館俳壇

函館柳川会を中心とした函館柳壇

ホトトギス隆盛の函館俳壇   P855−P857

 北海道における俳句は、道内各地がそうであったように、他の文学ジャンルより早い時代に芽生え、大衆の心のよりどころとして、雑草のように生い茂るたくましい追随者によって築きあげられてきた。明治期にあって、道南地方の俳壇をふり返るとき、松窓乙二の斧柄社(『函館市史』通説編第1巻参照)とならんで一方の雄となったのが孤山堂無外である。無外は、文政2(1819)年常陸国に生まれ、万延元(1860)年渡道、慶応元(1865)年に孤山堂の3代目後継者となった人物で、明治に入り開拓使函館支庁に勤めた後、明治20年、函館八幡宮主典となって函館俳壇に君臨した(明治26年6月75歳で没−『北海道人名辞典』)。斧柄社や無外によって培われた函館の俳壇は、俳人集団「秋声会」のメンバーのひとりで、函館新聞の主筆だった岡野知十の活動によりその広がりをもったといえる。岡野は明治14年来函、函館新聞社に勤めながら「巴珍報」を出版、俳句の選者に当時函館俳界の三傑といわれた無外を起用した。
 函館の新聞紙上に俳句関係の作品や記事が掲載されたのは明治20年代半ばで、北海新聞の選者になったのは青木清治郎(郭公)である。青木は元治元(1864)年新潟県糸魚川に生まれ、新潟師範学校を卒業後、明治23年に来道して、函館の北海新聞に入社した。以来各地の新聞社を経て、大正期は北海タイムスに勤めた。郭公は、大正15年俳句雑誌『暁雲』を創刊、札幌の牛島滕六が発行する『時雨』とならび戦前の本道2大俳誌といわれたが、その昭和10(1935)年の誌上で、当時の函館俳壇状況を次のように記している。

 其頃函館には可なりそちこちに俳句の連座が行はれていた。孤山堂無外宗匠も存命してゐて、公園の堂藪に草庵を営んでゐる。其高弟姥子歩月を始め、一門の人数多く、純旧派の勢力が幅を利かしてゐる所へ、一方ホトトギス派の畑打会が亦若い連中の多数で、新派風をほのめかしているのであった。
 新聞への投句者には、純旧派もあり、ホトトギス派もあり、其中間を行く一派もある等、さまさま毛色の変ったものを一丸として、夫々に優れたものを採るといふのが私の選句態度であった。主義もなく、主張もなかったが、同時に敵もなかった。

 なお明治37年1月号の「俳句会国分け表」によれば、函館の句会として畑打会の名があり、その前後のホトトギスに掲載された「地方俳句界」では、函館の青雲会、青蕪会、吹雪会、新声会といった名が見られ、その活発な活動の一端をうかがうことができる。
 明治期、俳句をより普及させたのが正岡子規の登場と彼の展開した俳諧革新運動であった。子規は、それまで発句・連句で構成されていた俳句の発句(1句目)を独立させ、5・7・5の17音を本体とする形式への一大変革を行った。これが近代俳句のきっかけとなり全国に波及したが、函館をはじめ道南の沿岸一帯では、明治中頃まで旧派の俳句活動が根強く残っており、子規による日本派の台頭や子規門下の代表的俳人河東碧梧桐の遊行(初来函は明治40年2月25日)によってようやく新風がもたらされ、旧派は次第に姿をひそめ、近代俳句へと軸足を移していったのである。
 続いて大正期から昭和戦前にかけては、高浜虚子を中心にして興された「ホトトギス」を主体とした歴史であり、中央俳界のこの風潮は、北海道でも同様の流れを汲むこととなった。同時期の道内俳壇は、明治期の俳句近代化から移行し、中央からの俳風移入とその成果を吸収することに忙殺され、北海道の風土に根ざした俳句の開花を望みながらも、なかば植民地的な相貌を脱しきれずにいたのである。
 大正以降の函館では、明治俳人の代表的存在であった福原雨六門下の藤田紫水朗が、京都の句会「懸葵」の支部を、また早川草川らが「五稜吟社」を、阿部雨花が「六花吟社」を結成した。さらに藤田紫水朗が主宰する「獺祭句会」、谷川漱石の俳誌『かたつぶり』、伊早坂赤頬「俳句世界」、中村舟路「俳句協会」、柳田劉「水明函館支部」、石川雪峯「蕾句会」、そして新興俳句の新鋭といわれた斎藤玄の『壺』などが次々に誕生した。
 人の生と死を透徹した目で見つめた弧高の俳人として知られる斎藤玄は、大正3(1914)年函館に生まれた。父俊三は、咀華と号する二科会所属の画家で、玄は、函館中学校から早稲田大学商学部に進み、在学中に新興俳句につかれ、従兄杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に入り、西東三鬼に師事してたちまち頭角を現した。卒業後函館に戻って北海道銀行に入行し、昭和15年には角野良雄らと「壺俳句会」を興して『壺』を創刊した。さらに、聖林子の養母の紹介で石川桂郎を知り、同18年桂郎のすすめで石田波郷門に入った。翌19年には在京勤務となり、波郷に一層傾倒していったが、波郷との出会いによって、『壺』の主張は出発当時の新興俳句的な意識が次第に薄れ、古格を踏まえた伝統俳句本来の姿を追及するようになった。『壺』は戦争末期近くの昭和19年、戦争の重圧から止むなく休刊するに至ったが、最終同人には、石川桂郎、杉村聖林子、相馬遷子らを加え、戦後の新鋭俳人を多く輩出するための素地を築いていった(前出『北海道俳句史』)。
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