通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
1 函館文学の誕生と成長

北海道文学の萌芽

苜宿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇

紅塵社・夜光詩社そして海峡社へ

『短歌紀元』から『無風帯』の時代

来函者によって培われた函館詩壇

ホトトギス隆盛の函館俳壇

函館柳川会を中心とした函館柳壇

来函者によって培われた函館詩壇   P852−P855

 函館の詩の分野での活動が緒につくのは、前段で記述した文芸結社苜蓿社の活動にその出発点を求めることができるだろう。当時函館靖和女学校の国語教師であった大島流人によって編集された苜蓿社の機関誌『紅苜蓿』は、単に短歌の領域にとどまらず、短歌・長詩・随筆・俳句・小説などといった具合に、さまざまなジャンルの作品を掲載しており、文学全般を視野に入れていたことがうかがえる。この機関誌に″詩″を発表しているのは、啄木をはじめ松岡蕗堂、向井夷希微、岩崎白鯨、吉野白村、宮崎郁雨、並木翡翠、飯島白圃といった主要同人に加え、大磯たか子、桜井恵子、渡部若草、丸谷桃浪、小田観螢らであった。
 大正期を迎え、大正9年5月、上磯町当別のトラピスト修道院(正式名は厳律シトー会・灯台の聖母トラピスト修道院)に三木露風が招かれ、大正13年6月病気静養のため帰京するまで、文学と修辞学の講師として勤めた。露風は、明治42年9月に刊行した詩集『廃園』で日本詩壇にのしあがり、北原白秋とともに後期象徴派詩人の双璧としての地位を確立していたが、トラピスト修道院時代には、作品の中に信教観念が色濃く表現されるようになり、詩人としては下降線をたどりはじめていたといえる。この間にトラピスト詩集『芦間の幻影』(大正10年)、『信仰の曙』(同11年)を刊行した。
 露風の帰京を知らなかった北原白秋は、大正14(1925)年夏、トラピストに露風を訪ねている。白秋は、この時トラピスト修道院に宿泊して詠んだ詩を、昭和4年刊行の詩集『海豹と雲』に発表しているが、「朝」と題する作品には、「トラピスト修道院」というサブタイトルが付されトラピストの光景が、次のように歌われている。

揺りいづる鐸(すず)のかずの                 しづけさや、よき寺や、
六(む)つあまり、七(なな)つか、八(や)つ。        カトリコの朝弥撒(あさミサ)や。
夜はあけぬ、麺麭種(パンだね)の              鷹のごと光るもの
粉(こな)かとも花は咲きて。                 山の気に吹きながれて、
露ながら、人はあり、                     美しき八月や、
いのりつつ、野に刈りつつ。                  翼(つばさ)ただ海を指(さ)しぬ。

 明治末期から大正期にかけては、函館と周辺町村において、啄木や露風の影響を受けた青年たちが、詩社を興し詩歌誌『生』の同人を中心に、「函館文芸協会」を創立した。そこで活躍した同人には、大正11年来函した高橋掬太郎をはじめ、海老名礼太、片平庸人、三吉良太郎らがいた。

高橋掬太郎
 明治34(1901)年4月、根室に生まれた高橋掬太郎は、啄木が一時期すごした函館にあこがれを抱き、函館日日新聞社の記者として来函した。昭和5年、函館の『北日本民謡』に片平庸人をモデルにした歌謡詩「酒」を発表し、これを翌年コロムビアレコードが「酒は涙かため息か」と改題し、古賀正男作曲、藤山一郎の歌でレコード化され大ヒットした。高橋は、昭和8年コロムビアレコードの専属となり、やがてキングレコードに移籍したが、3000曲におよぶ作詞を手がけ、「歌謡は詩でなければならない」というのが持論であった。
 明治39(1906)年7月、後志管内積丹町に生まれた海老名礼太は、旭川師範学校在学中から詩作活動を行っていたもので、昭和6(1931)年には、「北海道詩人協会」名の詩人集を刊行したが、期待するだけの広がりを持つまでには至らなかった。詩集に『蟹の情熱』『薔薇色の掌』などがあり、全国的に知られたが、昭和11年の北海道綴方教育連盟事件に連座して退職した。同17年には、満州に渡り、ハルビンの女学校教師として赴任し、終戦後は中国側に徴用された。
その後北海道の教育界に復職して、倶知安町から蘭越町の小学校校長となったが、間もなく行方不明になった(北海道詩人協会編『資料・北海道詩史−明治・大正・昭和−』)。
 明治35(1902)年仙台に生まれた片平庸人は、わが国の童謡開花期に野口雨情や西条八十に私淑し、昭和5(1930)年2月、函館に移り住み、海老名が主宰する『北海詩戦』に参加して民謡を発表した。その作品は「読む民謡」をめざしたもので、独特の省略法と、温められ練りあげられた言葉で、人生の哀歓を染めあげていった。片平を代表とする函館の民謡活動は、他の地域の詩作活動とは異質のもので、詩と民謡が同居するという全国でも珍しい形式の現象であった。片平の活動は、民謡畑に若手詩人を参加させようとするものであり、「民謡は詩としての文学価値を持たなければならない」という片平の信念からきたものであった(同前)。
 明治40(1907)年弘前市に生まれた三吉良太郎は、大正8年函館に移り、「日本詩壇」の同人を経て、昭和17年、片平庸人と共に詩誌『涛』を創刊した。ここに村木雄一、野呂喬、荒谷七生、志田十三、木村茂雄、小野連司、山野康蔵、宇賀峰七らが参画したが、19年に入り、太平洋戦争が激しさを増し、また官憲の介入などもあって、第20号をもって休刊した。昭和21年になって三吉と片平は、『涛』を復刊したが、戦中、戦後の道南における詩人の発掘と育成に果たした役割は大きい。西脇順三郎の影響を受けた三吉の詩集に『秋風の饗宴』や『秩序なき貌』『虹の門標』がある。三吉は、函館を第二の故郷として、港町の″奥行きの深さ″と″新しい情緒″をうたいあげる一方、たくみなうまさで庶民感情をたかぶらせる生活詩を書きあげた。
 このほか村野四郎、春山行夫らが発行した詩誌『新領土』の同人で、『ダンダラ歌集』『文学症』『エヴの森』などの詩集がある村木雄一(明治40年樺太大泊生まれ)や、海老名礼太の『北海詩集』に参加し、『北海詩戦』『北方の詩』の同人となり、さらに木村茂雄の『北方詩族』『涛』『だいある』の同人になった山野康蔵(明治44年10月、渡島管内砂原町生まれ)などがいた。山野は、生活をじっくりと見つめ、そこから生まれる喜びや悲しみを呟くように表現したが、その詩風はさながら「庶民哲学」といった骨太さがあった。詩集に『虚白の書』がある。
 このように函館とその周辺における詩の分野での活動は、主に明治生まれの、しかも来函者が中心になっての展開であったが、明治期から大正・昭和戦前期と続いていく中で、第2次大戦に入ってからは、特に目立った活動は見られない。
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