通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
1 函館文学の誕生と成長

北海道文学の萌芽

苜宿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇

紅塵社・夜光詩社そして海峡社へ

『短歌紀元』から『無風帯』の時代

来函者によって培われた函館詩壇

ホトトギス隆盛の函館俳壇

函館柳川会を中心とした函館柳壇

苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇   P840−P845

 明治26年を迎えて早々わが国では、旧来の和歌に対し落合直文が浅香社を結成し、やがて新詩社や根岸短歌会など新派の動きが活発になり全国に波及していったが、北海道での和歌への新たな機運の萌芽は遅かった。函館では、明治36、7年頃すでに新詩社の社員であった西堀新潮を中心として村井巴浪、長谷川益雄、平眞虎、佐々木江舟、宮崎郁雨などが「函館新詩社」を結成し、回覧誌『北星』を発行した。また39年には、函館毎日新聞社への寄稿家の有志である横岡湖畔、野坂紫葉、本山渓舟、岡田是空、松岡蕗堂らが集って短歌研究の会「野薔薇会」を結成し、その年の暮れには同人の間に文芸雑誌刊行の話が進み、先輩大島野百合、飯島白圃、向井夷希微らの協力を得て会の名を「苜蓿社」とし、雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』を発行した。初号発刊は40年1月1日のことであった(阿部たつを「函館歌壇小史」『函館歌壇史』)。こうして明治後期に入り、ようやく函館を中心にした短歌活動が動きはじめたのである。詩集『あこがれ』(明治38年 小田島書房)を出版して、一躍年少の天才詩人として喧伝されることになった石川啄木と苜蓿社のつながりは、このときにはじまる。

『紅苜蓿』の表紙
 松岡蕗堂にこわれるまま啄木は、『紅苜蓿』の創刊号に、「公孫樹」「かりがね」「雪の夜」の3篇の長詩を掲載した。これは、蕗堂が東京新詩社の『明星』(明治33年創刊、同41年廃刊)へ歌を発表していた関係から、啄木に依頼したもので、啄木と苜蓿社、さらには函館を結ぶきっかけとなった。当時の啄木は、父石川一禎が渋民村(現在岩手県岩手郡玉山村)の宝徳寺住職への復帰が失敗し、新しい運命を開拓するため、蕗堂に渡道の可能性を打診していた折であり、一方の苜蓿社の側では、専属の編集者もいないため原稿難に苦しんでいたことから、啄木の来函を「鶏小屋に孔雀が舞い込んでくるようなものだ」(阿部たつを『啄木と函館』)といって歓迎した。
 明治40(1907)年5月5日、函館に到着した啄木は、それまで大島流人が主宰となっていた編集一切の仕事を第6号から任され、『紅苜蓿』を『れっど・くろばあ』と改称した。この文芸誌について啄木は、「雑誌紅苜蓿は四十頁の小雑誌なれども北海に於ける唯一の真面目なる文芸雑誌なり」(明治40年9月6日付「日記」)と記している。
 函館における文学開花のひとつの節目は、この時期にあるとみてよい。しかし『紅苜蓿』は、同年8月25日市内東川町から出火した大火により、すでに印刷所へ提出済みの第8号の原稿を焼失してしまい、第7号で終刊となってしまったが、大火の模様を啄木は、8月27日の「日記」に次のように記している。

 市中は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、黄煙全市の天を掩ふて天日を仰ぐ能はず。人の死骸あり、皆黒くして南瓜の焼けたると相伍せり(中略)、予の見たるは幾万人の家をやく残忍の火にあらずして、悲壮極まる革命の旗を翻へし、長さ一里の火の壁の上より函館を掩へる真黒の手なりき、(中略)
 大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して今や新らしき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝盃をあげむとす、
 函館毎日新聞社にやり置きし予の最初の小説「面影」と紅苜蓿第八冊原稿全部とは烏有に帰したり、雑誌は函館と共に死せる也、こゝ数年のうちこの地にありては再興の見込なし、


函館大火を記した啄木の「日記」(市立函館図書館、啄木文庫蔵)

啄木と苜蓿社同人
円内 上:吉野章三、大島経男
    中:岩崎正、宮崎大四郎
    下:並木武雄
円外:啄木、西村彦次郎
 この大火による甚大な被害状況を目のあたりにした啄木は、函館は当分再興する見込みがないと判断し、9月13日離函して、札幌に向った。その後小樽から釧路へと、漂泊とも流浪ともいえる生活を送り、翌41年4月上京して、やがて「生活を歌う」という独自の内容と、3行書きの新しい表現形式によって綴られた処女歌集『一握の砂』(明治43年)や第2歌集『悲しき玩具』(同45年)をはじめ、多くの優れた詩歌、評論や日記を書き遺し、わが国を代表する偉大な文学者となったが、明治45(1912)年4月13日、27歳でその生涯を終えた。
 一地方の文芸雑誌『紅苜蓿』は、啄木とのかかわりを持ったことによってクローズ・アップされ、永くわが国の近代文芸史上にその名をとどめることになったのである。
 なお、苜蓿社主要メンバーのその後の足跡をたどれば、『紅苜蓿』創刊号から第5号までの主宰を担当し、啄木が同人中最も尊敬した大島流人は、一時期、郷里日高の静内に戻ったが、間もなく札幌に出て北海タイムスの電報主任となり、さらに上京して、農商務省、東京市庁に勤務後、春秋書院に入社して『服部漢和大字典』の編集主任をはじめ出版界で活躍した。昭和15(1940)年神戸日語学院に迎えられたが、翌16年65歳で病没した。啄木が、同人の中で誰よりも親しく交遊をもった函館郵便局の為替係であった岩崎白鯨は肺結核を患い、やがて郵便局員を辞して療養に専念した。
 しかし、不治の病いに勝つことができず大正3(1914)年9月、29歳の生涯を閉じた。同人内でも年長であり、長者の風格をそなえていた東川小学校教員の吉野白村は、函館歌壇に清新な息吹を与えたひとりであり、啄木を弥生小学校の代用教員にも世話をしたが、その豊かな人柄と気負うことのない謙虚な姿勢は、啄木の心を強くとらえた。明治41(1908)年8月、釧路に移り天寧(てんねる)小学校校長となったが、後に教職を辞して鉄道に入り釧路運転所に勤務、肺結核のため大正7(1918)年6月、38歳で他界した。
 啄木にとって欠くことのできない存在となったのが宮崎郁雨である。啄木来函以来、親友として、さらに啄木の妻節子の妹ふき子と結婚したことで、義弟として親戚縁者の関係になった郁雨は、啄木の才能への畏敬と親しみから、長い間物心両面にわたって援助した。亡父の後を継いで、宮崎味噌製造所の代表者となったが、やがて家業を廃業し、昭和8(1933)年3月、社団法人函館慈恵院(現社会福祉法人函館厚生院)の常務理事となり、昭和21(1946)年退職するまで、社会福祉事業に専念し、昭和37(1962)年3月、78歳の生涯を閉じた。郁雨は、良識ある堅実な生活者として、周囲からも尊敬されたが、啄木への批判や自伝的叙述を含めて記した『函館の砂−啄木の歌と私と−』(昭和35年)は、啄木の素顔の一面を知る上で極めて貴重な証言記録の1冊となった。また自ら歌人としても活躍し、没後出版された歌集に『郁雨歌集』(昭和38年)がある。
 啄木と函館のかかわりは、函館文壇のその後の成長への大きな足がかりとなるものであったが、本州と北海道の結節点として、また北海道開発の拠点としての役割を担っていた明治期の函館は、すでにこのころから、文学世界においても様々な作家や作品と、時には直接、時には間接的なかかわりを持ってきたことを特筆しておかなければならない。
 明治後期を迎え、わが国の歌壇活動が活発化していく中で、道内では『潮音』が勢力を張っていた。『潮音』は、大正4年7月、太田水穂が自ら主宰し創刊したもので、″生命の根源は感動であって、感動をもって歌の根源とする≠ニするいわゆる「万有愛」の理解をとなえ、写生を排して直観によって形象を把握すべきであるという考え方をもっていた。しかし、そのために写生論をとなえる『アララギ』とは対立するようになっていた。42年9月、根岸短歌会の機関誌『馬酔木』を改題した短歌雑誌『アララギ』は、歌壇の一隅で写実的な歌風を地道に推し進め、大正5、6年頃には歌壇の主流をなすまでに至るが、その歌風は、客観的な態度で自然を深くとらえ、万葉調によって表現する方向をとり、東洋的な沈静の境地へと進んでいった。
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