通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第6節 民衆に浸透する教育

1 大正デモクラシーと教育

4 実業教育

実業教育の改革

庁立函館商業学校の教育

庁立函館商業補習学校

函館工業学校の設立と庁立移管

区立函館工業補習学校

函館中等夜学校の設立

函館女子中等学校の設置

庁立函館商業学校の教育   P661−P662

表2−153 庁立函館商業学校の学級数・生徒数
年度
学級数
生徒数
本科
予科
本科
予科
明治40
41
42
43
44
大正1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
昭和1
2
3
4
5
6
7
8
9
4
4
5
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
6
7
8
8
9
9
9
9
9
9
9
9
190
203
236
267
271
261
252
261
264
268
266
259
263
269
289
168
193
214
219
238
269
290
275
288
287
298
297
311
317
339
17
19
21
22
25
25
25
25
25
25
24
25
25
764
885
998
1,121
1,204
1,210
1,194
1,201
1,208
1,190
1,183
1,206
1,226
注)各年度『文部省年報』による。
 大正期における、函館商業学校の学級数および生徒数は表2−153の通りである。大正末期の拡張が、特に注目されるところである。類焼による校舎等の焼失を機に起こった移転拡張の運動の結果、五稜郭移転といわゆる「倍大拡張」に近い大幅拡張が実現した結果が表れたものである。
 元町校舎時代から五稜ヶ丘校舎時代を通じて、大正期の函館商業学校の教育活動は、その充実ぶりを世に示していた。野球部の全国大会出場や、水泳部の「全道三連覇」など、大正デモクラシー期の多彩で活発な校友会活動の一端を示すものである。
 商業界はもちろんのこと、学会、画壇、文壇など多方面に多くの人材を送り出す同校の伝統が、いよいよ強固なものになったことをこの時期の同校卒業生の活動が示していく。なかでも傑出した多くの画家を世に送る基になった「オーロラ画会」の存在は、意義深いものがある。函館商業学校の教育が、広く社会一般の認めるところとなったことを示す指標なのであろう。
 同校の入学歩合は、終始競争の激しさを示すものとなっている(表2−154参照)。
 大正10年4月、類焼による校舎の焼失は大きな試練の時であったといえるが、これを機に、学校関係者はもちろんのこと、函館教育会、函館商工会議所、区会および区民一体の拡張運動が実を結び、先にも触れたような拡張移転が実現し、同校のいわゆる五稜ヶ丘校舎時代が始まるのが大正11年のことである。
表2−154 区内中等学校の志願者数・許可者数
校名\年度
大正5年
大正6年
大正7年
志願数
許可数
歩合
志願数
許可数
歩合
志願数
許可数
歩合
函館師範学校
函館中学校
函館高等女学校
函館商業学校
函館商船学校
227
221
177
383
82
80
96
99
142
53
35
43
56
37
65
251
249
243
415
86
79
94
100
133
68
31
38
41
32
79
195
276
227
517
84
80
144
100
141
46
42
52
44
27
55
注)『殖民公報』第103号(大正7年7月)による。
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