通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
3 工業化の進展

3 主要企業の動向

函館船渠(株)

浅野セメント(株)北海道工場

大日本人造肥料(株)函館工場

函館製網船具(株)

函館水電(株)

北海道瓦斯(株)

 次に前章でとりあげた主要企業のこの期における経営の推移を述べよう。

函館船渠(株)   P449−P450

表2−64 函館船渠(株)の営業状況
年次
収入
損益
払込資本
配当率
職工数

大正10
11
12
13
14
昭和1
2
3
4
5

1,993,410
1,881,059
1,737,799
1,675,327
1,810,014
1,940,442
1,906,795
2,082,287
2,567,901
2,111,966

152,671
205,424
193,470
206,131
84,679
110,312
125,830
151,876
191,300
164,593
千円
3,200
3,200
3,200
3,200
3,200
3,200
3,200
3,200
3,200
3,200
上期
5
4
5
5
5
3
3
3
4
5
下期
3
5
5
5
0
3
3
4
5
3

702
718
630
629
658
645
653
633
636
632
各年の「営業報告書」より作成。
注)職工数は『函館船渠株式会社四十年史』による期末在簿者数
 表2−64でこの10年間の経営の推移をみると、第1次世界大戦時とは激変して欠損はないものの、低収益が続いたことがまず配当率で読みとれる。大正10年12月頃、東京株式取引所へ上場したこともあり、辛うじて配当を持続する(『函館船渠株式会社四十年史』)有様であった。10年間20期で、無期が1期、3%が7期、4%が3期、5%が9期である。前回には5%の配当率さえ1期もなかった。また職工数は大正6年から9年にかけての1000余人が600人台に減少した。社長の川田豊吉の談話(同前)によると、「近藤専務は強気一点張りで猛進して予想外に儲けてくれた。戦後の反動期に入り、近藤氏は之からは技術に明るいものが専務となって理づめの経営をしなければならないという感想をもらしたことがある」(同前)ということで、近藤専務は大正12年に辞任して、技術屋出身の大塚巌主事が専務となった。海運界の不振低迷で修繕船工事の獲得は、激しい競争下に争われ収益は伴わなかった。
 また、12年から格安な外国売船が続出して新造船の注文はなかった。しかしこの頃から陸上工事に力を注ぐ方針をとった。幸いに戦時中に拡張した工場の能力に余裕があって、陸上諸機械類の工事を引受けることが出来たのである。

浮ドックに上架中の第二日新丸(函館どつく百年史史料室蔵)
 そして、修繕船工事についてもこれまでの船渠では大にすぎ、船架では小にすぎて船ぐりがつかないので、両者の中間大の船渠が必要と考え、大正13年に、手持ちの船1隻を浮船渠にする計画をたてた。昭和2年9月には新設浮船渠の使用が開始された。浮揚力2500トン、船価36万8千円、鋼製浮船渠船の竣工は世間の注目を集めた。
 また、この頃工場の新旧不揃いで作業能率が徹底しないので、工費節約、設備改善のために、日本勧業銀行から45万円の借入を行った。しかし、金解禁の実施、世界的不況の波及で海運界は沈衰悲惨をきわめ、船舶の新規注文はほとんど跡をたち、同業者は修繕船工事に集中した。これに加えて、昭和5年は北洋漁業は不振の結果(日魯漁業は4期連続無配)に終り、この影響も大きかった。ともかく、本業の修繕工事の不足は陸上工事の獲得で補う状態が続いたのである。
 なお、昭和3年2月13日から3月5日にかけておこった労働争議について、2月19日付けの「函館新聞」に、「弊社労働争議に就て謹告」の一文が掲載されている。内容は増給、昇給、退職手当の増額についての回答であって、幾分か聞き入れられるものもあるが、出来ないものは遺憾ながら出来ないと答えたものである。そして、最後の所で函館船渠のおかれた経営上の問題点について、「人手にも材料にも不便な此土地柄で、弊社の限りある人手を以て格安工事を出来るだけ多くこなしつけて成績を挙げるためには、建物機械其他種々の設備を改善し、それから生ずる力と現在の工場従業者の能力とを合せてかせぎ出さねばなりません」と述べて、不況下における経営方針を明らかにしている。
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