通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
3 工業化の進展

2 業種別各産業の動向

木製品(製材・木製品工業)

食料品(醸造業、菓子製造業、冷蔵・製氷業)

ゴム(化学工業)

ゴム(化学工業)   P446−P448


ゴム長靴の広告(昭和2年2月25日付「函日」)
 函館商事合資会社は資本金2万円、代表社員内川源作で大正9年に設立され、10年には千代ヶ岱にゴム工場を建設した。動力は31馬力である。製品はゴム靴、ゴム袖、ゴム合羽などで神戸物や舶来品に持久力ではまさることが目標とされた。漁業基地函館には大量の需要があったので、続いて大正13年には湯の川通りに開発ゴム工業所が、14年には松風町に第一ゴム工業会社工場の設立があった。14年12月27日付の「函館新聞」によると、「開発の会社は昨年の創立で今の所大した成績を挙げてないが、千代ヶ岱の方は大正十年の創立で販路も広く東北六県及び三重県迄手を延べ、樺太、露領沿海州、勘察加まで拡げてる、道内は勿論のこと一年の製産高は百万円に上り、大小五十万足…」とあり、函館で出来る靴は道内で3分の1が消化され、残りが上記の地域向けであると書かれている。
 また、開発ゴム工業所は創立後間もなく買収されて、函館ゴム工業(株)(払込資本金6万円)となるが、社長は岡本康太郎で買収と再建の経緯を次のように語っている。「鷹田元次郎という鉄道に三十二年間もつとめて退職した男が私のところにやってきて、「退職金六万円でゴム靴工場をやりたいのだが、実業界はまるっきり一年生だから一つ社長になって協力してほしい…名前だけでも」と口説くので、とうとうこれを引受けることになったのです。ところが機械の据付けがまだ完全に終らないうちに、早手まわしの鷹田さんがゴム靴の宣伝をして歩いたものですから、注文が殺到してしまい、あわてて製造を開始してはみたものの、工場は不備の上に工員も不なれとあって、ロクな靴が出来ない始末です。こんなわけで満足な品が出来ないうちに、広告代やら人件費やらで資本の大半を使いはたし、私も社長の責任上これではいけないと感じたので鷹田さんにやめてもらい、私の店で使っていた岡田という男を支配人として、あと始末のためとんだひどい目にあってしまいました。」(「函館財界五十年」昭和21年1月「函新」連載)
表2−63 ゴム工業の推移
年次
函舘商事
千代ヶ岱工場
(開発ゴム)
函館ゴム工場
第一ゴム
工場
ゴム製品
生産額

大正11
12
13
14
昭和1
2
3
4
5

54
97
97
142
184
175
139



12
12
12
66
79
74






78
105






640,357
989,928
911,414
579,862
438,315
640,319
各年『函館商工会議所年報』より作成。
生産額は『北海道庁統計書』より引用。
 大正14年以降のゴム製品の生産額とゴム工場3社の職工数を表2−63で示した。神戸、大阪などからの移入額は大正14年で69万円、昭和元年で90万円、それからは低下するが、この移入額に匹敵する生産額が函館の3工場であったわけで、道内へ移出された40万円を差引くと、函館市場には100万円に近い需要があったことになる。このようにゴム工業は菓子工業とならんで、大正末期から昭和初期にかけての函館工業の推進役であった。
 その他の業種のなかでは、岡本康太郎がゴム会社と同様に設立に尽力した函館酸素(株)がある。上述の財界五十年によると次の通りである。

 有江鉄工所の仕事にたずさわるようになってから鎔接などに使う酸素に不便を感ずるようになりました。当時酸素は函館で生産されておらず、よそから買入れるため大変割高についたのです。ドック会社の専務をしていた大塚さんから私に「資本も出すし、製品も半分以上をドックで買入れるから、酸素会社をつくってみたら…」と話がもちかけられ…十五万円の資本金で酸素工場をつくりました。この酸素工場が出来上がったころ(大正九年)東京の保土ヶ谷酸素の工場も函館に進出してきましたので、激しい競争になってしまいましたが、このため当時病院用五十リットルで五円から十円もしていた酸素が工業用千リットルでたった一円にまで値下りし、需要面に少なからぬ恩恵を与えたものでした。

 製紙業では、明治年間から創業の函館製紙合資会社は昭和元年で廃業したようであるが、大正7年に創立した北日本製紙(株)は、大正10年に23万円の生産高が13年には39万円と上昇し、その後も30万円を上回っていたが、昭和5年には25万円に低下した。
 また、昭和5年の紡織工業生産額193万円のうち、製綿業は103万円で53%を占めたが、それまでの古綿の打直しから原綿よりの精製綿製造へと移行している。昭和3年の職工数は、丸村製綿が76名、函館製綿工場が11名、昭和2年創立の飯田製綿所は9名であった。
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