通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
2 函館の経済人の諸相

指標となる史料群

明治末期の有力経済人

大正5年の資産家

投資活動

大正期の貴族院多額納税者

営業形態の法人化

経済人としての漁業家

経済人としての漁業家   P426−P428

 函館の経済人のなかには多くの漁業家が含まれている。ある者は樺太や択捉、または露領漁業家として、またある者はそれらに依拠しつつ漁業以外の業能にも経営を多角化させていく階層が存在した。しかし経営基盤が漁業のみである場合は営業税関係では非課税となるためにその実態は反映されないが、一定の経済力を持ち地域に隠然たる影響力を行使する存在であった。
 明治40年『最新函館案内』は市中の有力営業種類の1つに「漁業家」をあげて「函館人士中漁業を以て成功したるもの少なからず」としている。豊・不漁の変動に激しく左右される存在であるが、日露漁業条約の締結後には露領沿海州に函館から出漁するものが多いとしながら、まだ創業時代であると規定している。これに対して樺太漁業については、すでに「成功時代」となり一代の資産家となっているものは少なくないとしている。ちなみにニコライエフスク・カムチャツカ方面の漁業家として小川弥四郎をはじめ高橋松太郎、坂井定吉など12名、樺太漁業家は小熊幸一郎・笹野栄吉・桂久蔵・永野弥平ら15名の名前をあげている。函館を根拠地とする漁業家は前述した小熊や小川(彼らは露領漁業の部で詳述されている)が代表的な存在であるが、その多くは樺太や択捉、そして露領漁業の経営者である。ここでは前掲した表に登場した人々のうちから漁業家でもある人々を抽出し、その何人かを点描してみよう。彼らは樺太や露領漁業の成功により資産形成をなし、漁業以外にも様々な業態を取り込んでいくものが多い。
 彼らのうちで最も早くから登場するのが桂久蔵であろう。先代は青森出身で船問屋であったが明治15年に函館にわたり荒物商を営み、27年から択捉漁業に従事、ついで30年から樺太漁業を経営、33年に先代は没する。ついで長男が2代久蔵となり引き続き漁業経営を行う。大正中期では樺太に8個所、択捉に3個所の漁場を経営するなど樺太西海岸水産組合長の職にもついた(大正6年『現在之函館』)。大正12年の『函館商工名録』には海産商(委託小売)であり、またルーツである縄筵などを扱う荒物商として堅実な経営を行っている。
 平出喜三郎は、もとは北前船主系の商業者であるが、物産商、海運業者のかたわら、漁業家ともなった。初代喜三郎は明治40年に没している。初代がどのような形での漁業経営を行っていたのかはよく分からない。2代は久保彦助の4男であったが、平出家に養子に入っている。2代喜三郎は先代の業態を継いで海運業、漁業、鉱業、物産業、代弁業、問屋業を営んだ。合名会社の函館塩販売所社長(大正3年創立)のほかに奥尻鉱山(株)社長、函館銀行監査役などを勤め、また函館新聞の社主でもあった。
 平出は太洋漁業合資会社を設立し、昭和2年に西カムのヤイナ沖合で神武丸(7000トン)と欧羅巴丸(五5000トン)の大型汽船で出漁、建網による鮭鱒の沖取漁業を行った。しかし建網方式が適当でなかったことと事前の調査研究の不足により失敗に帰した(『合同紀念 沖取鮭鱒漁業発達史』)が、母船方式の先べんをつけたことは高く評価されている。昭和4年の『函館商工名録』では、平出の営業収益税額は市内で64位であるが、業態は「石油」となっている。彼は同6年に没するが、その後を原忠雄が継承し、翌7年に平出漁業(株)と改組した。漁業、海運業、水産物加工売買問屋などを営業種目としているが、8年には第六播州丸を母船として沖取漁業に出漁しており、同社は太平洋漁業(株)などと並んで5大勢力の1つであった(『日魯漁業経営史』)が、昭和10年に太平洋漁業(株)に合併された。
 佐々木平次郎も同じような系譜といえよう。秋田出身、明治36年に樺太漁業を経営、日露戦争後にはカムチャツカ方面にも出漁し、後に商店部を設けて米穀、海産、船舶業、倉庫業などを経営した。彼の経営した会社の設立の動向は次のとおりである。大正7年に樺太に佐々木漁業汽船(株)(これは後に佐々木汽船(株)として函館に移し、漁業部は樺太漁業(株)となり同じく函館を本拠とする)、函館に佐々木商業(株)を設立、さらに大正10年には(株)佐々木倉庫を興している(これは昭和10年台には平塚常次郎の経営に移っている)。佐々木は平出と同じく衆議院議員となり、中央政界でも活躍した。大正10年の日魯漁業(株)、輸出食品(株)、勘察加漁業(株)の3社による第1次合同が行われたさいには佐々木は露領漁業の権利を譲渡している。佐々木は大正9年に露領水産組合評議員となり、昭和3年には同組合の副組長、のちに組長に就任して露領水産組合の中心的存在となった。政治家としての面と漁業家、そして企業家として広く活躍した。昭和7年の日魯漁業(株)への第2次合同のさいには露領水産組合を代表する形で取締役に就任した。さらに8年には母船式鮭鱒漁業を行う大同漁業(株)を創設し、社長となる。これは10年に太平洋漁業(株)に合同されるが、佐々木は同社の役員に就任している。この間、北日本汽船(株)監査役、中野炭鉱(株)取締役、寿都鉄道(株)社長、日本毛皮貿易(株)監査役などを歴任している。
 西出孫左衛門は平出と同じく石川県人で北前船主系であり、その歩みも類似している。まず函館を支店としていたために本籍のみのデータとなる各種史料からは欠落しているが、やはり函館において重要な位置を占める存在であった。彼が露領水産組合の組合員となるのは大正9年からであるが、それ以前から露領漁業へは着手していた。つまり広勢才一(彼は大正初年租借者で登場)の名義で入札していたのである。大正7年の『開道五十年紀念 北海道』に「露領の漁業に着目し、その一族近親と共に匿名組合の組織の下に之が経営を為し」とあるのは、このことを指している。この時点では西カムチャツカに4個所の漁場を経営している。そのために栄久丸(550トン)と福重丸(450トン)の2隻の汽船を備え、漁期に物資・漁獲品の輸送を行った。さらに大正8年には個人商店を資本金100万円の西出商事(株)と改組し、この時をもって石川県の橋立から函館に本社を移した。漁業、船舶業のほかに海陸産物問屋、缶詰製造を営業種目としている。そのかたわら函館銀行の取締役を勤めて、さらに郷里の石川県の銀行や電気会社の役員も勤めている。昭和7年には日魯漁業(株)への第2次合同により西出はカムチャツカ漁業から撤退した。そのために次の展開としてこの頃に新輸出品として脚光を浴びていたトマトサージンの製造に乗り出すべく7年に万代町に工場を新設した。従来経営していた缶詰製造の技術を生かし「西出のサージン」との声価を高めたという。その傍系事業として、北千島漁業(株)を創設して沖取漁業に従事した(昭和9年『近代函館』)。
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