通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
2 函館の経済人の諸相

指標となる史料群

明治末期の有力経済人

大正5年の資産家

投資活動

大正期の貴族院多額納税者

営業形態の法人化

経済人としての漁業家

営業形態の法人化   P421−P425

 明治末期から大正期にかけて個人営業の形態をとっていたものが合資会社や合名会社、さらに株式会社と経営形態を発展させていく過程がある。その典型例として渡辺熊四郎、相馬哲平、小熊幸一郎、小川弥四郎などをあげることができる。個人商店から会社形態への法人化は単に経営の近代化だけではなく、業態の拡大とも結び付いていた。ここでは渡辺と相馬についてふれてみよう。
 初代の渡辺熊四郎は明治期には洋物店を手がけて、外国製品を扱い、また近代的な生産形態に即した商品を取り扱い、函館における近代化の象徴的な存在であった。また経営の近代化という点でも他より先行している。個人商店から合名会社への経営の近代化といった動きは市中にあっては比較的早いほうであった。また函館の他の商人で海産商が荒物雑貨を兼ねるなどの兼業者はいるが、あまり多業種にわたって経営するものは少ないなかで渡辺の多方面におよぶ営業展開には著しいものがあり、各業種にあった支店網を展開している。店舗立地も中心街にあり、商業をベースとした多角的な営業形態を取ったのである。これはのちに金森百貨店へと発展していき、地元で初のデパートとなる。
 渡辺家は初代熊四郎が明治29年に隠居して孝平を名乗るが、明治39年になると本家(2代・熊四郎[旧名は山下音吉といい初代熊四郎の養子)と分家(三作のちに2代・孝平を中心とした初代の子供たちのグループ)とに分離し、本家は洋物店、魁文舎(書籍)、洋服店、時計店、三星店(砂糖雑貨)、一二堂、区内土地の一部、分家は倉庫、回漕部、船具店、区内土地の一部と釧路の土地とに分与された。前者は同年9月に資本金50円で渡辺合名会社、後者は同年12月に金森合名会社と会社形態の組織に改めた(『最新函館案内』)。渡辺合名会社は2代熊四郎が代表社員で本店が末広町にあり、出資社員はいずれもその一族であった。洋物を扱う末広町本店のほかに多数の支店を有して砂糖、書籍、時計、洋服、薬種、洋食料品、雑貨等の分業経営を行っている。大正3年『函館商工録』は渡辺合名会社を「函館の老舗にして信用ある商賈たるの代名詞となり此各分業支店を悉く集中する時は一個の大なるデパートメントストアたり」と述べ、後の百貨店へと発展する萌芽を見ているようである。2代熊四郎は初代に引き続き百十三銀行や函館貯蓄銀行の役員を勤めていたが、大正5年に2代が死亡すると同年に3代を襲名した熊四郎(先代の娘婿で旧名は林源太郎)は百十三銀行の役員には就かず函館貯蓄銀行の役員は継続した。このほかに大正後半からは第一印刷(株)の社長を勤めている。
 ちなみに大正7年時点での渡辺合名会社の各支店は図2−4のとおりであるが、これでみて分かるように、いずれもその当時の中心街、しかも電車沿線に立地している。立地の良さと時代に敏感な商品構成によって、絶えず新しい時代の息吹を感じさせる商業経営をしていた。大正13年の大火により時計店、魁文舎、洋服店、回生堂の4支店が焼失すると、この大火を契機として、それまで分散していた各支店を1個所にまとめた百貨店構想を打ち出して、大正15年に金森森屋百貨店(3階建)として開業した。これに伴い渡辺合名会社から百貨店を運営する母体の渡辺商事(株)を設立、分離して、合名のほうは、それ以降、貸家・貸地業と保険代理業のみを扱うことになった。百貨店は昭和5年に7階建に増築、その後商業上の中心は函館駅方面に移動していったこともあり、荻野呉服店と合併し、昭和11年に高砂町(現若松町)の現在地へと移転新築、(株)棒二森屋百貨店となった。

図2−4  渡辺合名会社支店位置図
 一方の金森合名会社は、大正3年『函館商工録』によれば船場町にあり(ただし同書には明治41年10月の設立とある)、倉庫業、船舶用品器具、漁具建築資材等の販売、土地建物貸付、仲買、代弁、造林一切を営業目的としている。代表社員は渡辺三作、出資社員はいずれもその一族で、「信用最も厚く函館に於る斯業の中堅を以て自他共に之を許す」存在と表現している。大正5年には戦時下の海運好況に支えられて資産が膨大なものとなったため、「業務を拡張して世界的に活動を試むるの必要に順応せんが為め」(『開道五十年紀念 北海道』)資本金300万円の金森商船(株)に組織を変更した。海運業、倉庫業、地所建物貸付業、代理業、殖林および付随の農業、船舶用品・漁具・建築材料販売、仲買業と営業種目を拡張した。本店は従来の船場町、支店は東浜町、道東の広尾、のちには神戸にも置いた。東浜町の支店は船具器械鉱油類を販売した。林業に関しては初代孝平が強い感心を持っていたが、実現することなく没したので、その遺志を受け継いだ三作が明治42年から着業、農業も兼業し、大正5年では茅部・宿野辺に2700町歩の地積を有している。ほかに大阪には倉庫用地2万坪弱の土地を入手している。なお株式会社に組織変更したさいに土地所有(金森合名会社からの名義変更は別にして)を拡大している。会社創業時の土地所有は、同社の『営業報告書』によれば函館区内・道内・道外に及んでおり、函館区内の宅地は5500坪、釧路には宅地と畑地4万坪、厚岸には宅地1300坪、七飯峠下の原野山林1500町歩、宿野辺に山林原野628町歩等を合名から継承したほかに美幌の原野や大阪にも倉庫用地を購入している。三作は大正7年に2代孝平を襲名するが、百十三銀行の役員は三作時代から同行が北海道銀行と合併する昭和3年まで続けている。
表2一51 大正12年の営業税の上位納税者
                       単位:円
順位
氏名
営業税額
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
函館水電(株)
(株)相馬商店
(株)百十三銀行
函館船渠(株)
大日本人造肥料(株)函館工場
(株)第一銀行函館支店
金森商船(株)
金森船具店
(株)北海道拓殖銀行函館支店
函館製網船具(株)
(株)安田銀行函館支店
三井物産(株)函館出張所
山崎汽船(株)
安田商事(株)函館支店
北海道瓦斯(株)函館営業所
(株)龍紋氷室函館支店
(株)鈴木商店函館支店
森卯兵衛
(株)今井呉服店函館支店
函館煙草元売捌所
久保彦助
渡辺合名会社
小川合名会社
加賀商店
瀬崎初三郎
(株)十二銀行函館支店
(株)五十九銀行函館支店
20,903
18,245
15,128
13,213
5,469
5,258
4,624
4,623
4,461
3,962
3,749
2,789
2,751
2,033
1,796
1,750
1,684
1,554
1,550
1,535
1,535
1,525
1,478
1,302
1,233
1,188
1,152
大正12年『函館商工名録』より作成
 以上のように渡辺家の場合は本家、分家と分離したことにより、経営形態も全く関連を失い、合名系列と商船系列とに2分される。両者は互いに持ち株とするような同族的な渡辺グループという形態を取らず、それぞれに異なる企業として歩んでいる。渡辺合名会社は多様な物品販売を中心に土地建物賃貸業を兼業し、金森合名会社は海運業を中心に関連の倉庫業、船具、それに地所建物貸付業を兼ねた。いずれも長年にわたり函館を代表する企業として、かつハイカラという街の特色を体現するような象徴的な存在であった。なお渡辺熊四郎、渡辺三作ともに個人納税者としては大正後半からは上位にランクされなくなるが、それは収入を個人へ集中させずに、企業資産へと比重を移していったことの反映とみることができよう。実際に表2−51にみられるように渡辺合名会社、金森商船(株)の両法人がともに営業税の上位納税者であることが、そのことを証明している。
 相馬家の場合は、大正4年に個人商店を合名会社と改組している。同家は次第に大家族の形態を取るようになってきたので分家し、各家の財産債務を定めることにした。そして哲平、市作、省三、康平を出資社員として資本金200万円をもって相馬合名会社を設立した(『相馬哲平伝』)。営業目的は海陸物産問屋業、金銭貸付業、漁業、鉱業となっていた。各自の財産保全と相互の公平な配分を目的として便宜上、法人組織にしたものであるが、大正元年に函館貯蓄銀行、同3年に百十三銀行の頭取にそれぞれ就任したことも合名会社設立の要因となったのではないだろうか。さらに大正8年には合名を300万円に増資するとともに、別に(株)相馬商店(資本金200万円)を設立し、合名から金銭貸付、海陸物産販売業、漁業、鉱山業を商店に移した。この結果、相馬合名会社は不動産と有価証券 売買を営業目的とし、相馬商店は事業会社となった。合名は財産保全といった機能分化をしてリスクの分散を図ったのであった。株式会社を設立しても広く資本を糾合するという発想はなく、あくまで同族的な性格を維持していったのである。また相馬合名会社は、この後も資本増資して相馬商店に積極的に貸付を行っている(渋谷隆一「金貸地方財閥の展開と銀行」『地方金融史研究』第18号所収)。相馬商店のほうは東京進出を図り、昭和期に入ると、東京での事業は軌道にのっていった。
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