通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
2 函館の経済人の諸相

指標となる史料群

明治末期の有力経済人

大正5年の資産家

投資活動

大正期の貴族院多額納税者

営業形態の法人化

経済人としての漁業家

大正5年の資産家   P407−P412

 明治40年『最新函館案内』には、有力業種のなかに「財産家」という1項目をたてて渡辺熊四郎(初代)、相馬哲平(初代)、杉浦嘉七の3名をあげている。これは地方の資産家としての位置付けが確立した時期と読み取ることができよう。
表2−44 大正5年の北海道資産家
                           金額:千円
順位
金額
氏名
職種
住所
備考
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
7,000
6,000
2,500
1,900
1,500
1,500
1,500
1,200
1,000
1,000
1,000
1,000
1,000
1,000
800
750
700
700
700
700
700
700
700
700
700
600
600
600
550
550
500
500
500
500
500
500
500
500
500
500
500
500
500
500
500
相馬哲平
板谷宮吉
渡辺三作
小熊幸一郎
西出孫左衛門
藤山要害
木村円吉
楢崎平太郎
久保彦助
渡辺熊四郎
松田助八
五十嵐久助
犬上慶五郎
金子元三郎
笹野栄吉
栗林五朔
平出喜三郎
渡辺長一郎
浜根岸太郎
橋谷巳之吉
日下部久太郎
五十嵐佐市
梅津市太郎
山本久右衛門
藪尭祐
岩船峰次郎
佐々木平次郎
猪俣安造
忠谷久次郎
品田弥一
斉藤甚之助
岡田金作
中山説太郎
堤清六
山崎松蔵
前田利一
和泉庄蔵
今井藤七
本間泰蔵
小田良治
高橋直治
柳田一郎
宮腰伊七郎
宮腰利作
白鳥永作
貸金貸地業
海運業
漕業
漁業
漁業、海運業
回漕、漁業、鉱業
漁業、貸地業
海運業
雑貨商
商業
海事工業、海運業
貸金業
海運業
漁業
漁業
牧畜業
海運業
貸金貸家業
海運業
海運、雑貨商
海運業
貸金業
漁業
漁業、海運、倉庫業
農業、貸地業
呉服商
漁業
漁業
漁業
貸地貸家業
酒醤油業
漁業
漁業
漁業、缶詰業
漁業
海運業
漁業
呉服、雑貨商
海運、漁業
鉱山業
会社重役
漁業、牧畜業
貸地業
貸地、農業
漁業
函館
小樽
函館


小樽

室蘭
函館


札幌
小樽

函館
室蘭
函館




札幌
岩内
小樽
札幌
函館

余市
函館

札幌
函館




根室
札幌
増毛
札幌
小樽
根室
小樽

後志












































『時事年鑑』(大正7・8年版)より作成
この種の調査は第1回目が明治34年、第2回目が明治44年、上記の調査は第3回目にあたり、大正5年1〜8月に実施
備考欄の○は前回調査で50万円以上の資産者
 表2−44は大正7・8年版『時事年鑑』に掲載された大正5年の北海道資産家上位45位までのものであるが、これは有力経済人の資産家としての位置づけを示す史料である。函館は22名と半数を占めている。10傑には函館、小樽ともに4名が入っており、道内では函館と小樽が優位に立っている。トップは相馬哲平で700万円、ついで小樽の板谷、3位以下に渡辺三作(大正7年に2代渡辺孝平となる)、小熊幸一郎、西出孫左衛門と函館勢が続いている。国税の上位納税者を示すものは漁業者が非課税であるため兼業者以外はランクされないが、この資産家一覧はあくまでも資産を基に作成したこともあり漁業関係者も数多く含まれている。とりわけ函館勢は9名もの漁業家がランクされているが、彼らは樺太漁業や露領漁業を経営基盤として資産形成をしている一団であり、函館の特徴的な一面を良く示したものであるといえる。こうした漁業家が函館の経済界の一翼を担う存在であることは明らかである。
 また資産家も前時代から引き続いて資産蓄積をなしてきた旧有力商人(相馬、渡辺、西出、久保等)と、この時期に急成長してきたグループ、いわば新興の資産家(小熊、松田、浜根、日下部等)とに二分される。また比較的海運に関係した業者が多く、全道的にみても13名が入っているが、これは第1次世界大戦による戦時の海運好況に支えられたものである。
 この史料でいう資産とはどこまでの範囲を指すのかは凡例がないため厳密さに欠けるが、相対的な資産家の位置を表現したものとみて構わない。おそらく各個人の土地や公債・株式の所有、船舶、経営する業態の資産評価などによりランク付けしたものであろう。漁業家の場合であれば漁場の資産評価もこれに含まれる。このほかに運用資金という意味で、とりわけ函館の資産家は漁業仕込みや金貸業を兼ねるものが多く、こうした貸付金も含まれていると考えられる。この表に関して相馬と小熊についてふれておこう。
 首位の相馬哲平(初代)は、この時点では相馬合名会社の代表社員であるが、元来、金銭貸付業を中心に海陸物産委託問屋として堅実な経営を行っていた。明治36年の『北海道案内』では、仲買、海陸物産、肥料委託販売業と紹介され、函館市街の宅地・貸家所有では第1位であり、しかもそれらの多くは枢要の地にあり、さらに広大な耕地を各村に持つとある。この中では金貸業という文言はないが、「衆私かに称して相馬銀行と云ふ」との記述からうかがえるように銀行に匹敵する金融業と位置付けられている。また、明治40年の『最新函館案内』にも営業種類の「金貨業」の項で相馬は金銭の運転ということでは銀行も及ばない勢いであると評している。さらに大正2年に日本銀行函館支店が調査した『函館ニ於ケル銀行以外ノ金融機関』によると、相馬は漁業仕込者を含む金貸業者のなかで貸付見込高300万円とあり、群を抜いた存在であった。相馬の金融業は一般の貸付である商業金融と漁業仕込みとの両面を有していたが、貸付に当たっては地所抵当金融が多くを占めていた。地所抵当の貸付は貸し倒れの損失を防ぐということで取られたわけであるが、同書は「相馬哲平ノ富ヲ致セルモ主タル原因は実ニ此レニ在リ」と述べて自己の潤沢な資力を効率的に運用した結果、副次的に土地集積に結びついていったことが分かる。資産形成の一面を示すものであるが、もちろんそれが土地集積の全過程を表したものではない。これとは別に不動産業的な経営による土地への資本投下もありえたと考えられる。実際に相馬哲平の資産運用についての方針は不動産、有価証券、現金(預金・貸金)の3分野を偏らないようにしたという指摘もあるからである(相馬確郎著『朝提灯』)。なお相馬の土地集積過程については『函館市史』都市住文化編の「函館の近代都市空間形成の素描」で詳しく論述されている。
 相馬は不動産でいえば市内の宅地のほか道内や出身地である新潟の田畑、宅地に、また貸金も市内をはじめ道央まで拡大し、漁業融資でも道内一円にとどまらず樺太、露領方面へも行うようになる。有価証券類は国債を中心に地場の銀行や函館船渠といった諸企業や北海道拓殖銀行、満鉄、朝鮮銀行、台湾銀行等の上場企業に及んでいる。また自己資金を中心とした運用をしているが、明治42年には日銀からの個人融資を認められる存在となった。それは相馬の資産家としての信用の高さを示すものである。もっとも相馬側では経営の基本はできるだけ借り入れを少なく自己資金で運営するということもあって、日銀との関係も所有する国債を換金する債券市場が函館にないため、国債を担保として借り入れしたに過ぎないとして借金という認識は希薄であったようである。また相馬は大正7、8年ころに市内の海運業者へ船舶抵当の融資も行っている。戦後不況に遭遇した債権者が償還できずに抵当として引き取った船舶の維持費で200万円以上の赤字を出したが、これだけの欠損が出ても、相馬の経営基盤は盤石なくらい資産形成がされていたという(同前)。

旧有力商人 左から相馬哲平、渡辺熊四郎、西出孫左衛門(『開道五十年記念 北海道』)

 ところで相馬は函館を代表する地方財閥ともいうべき存在であったが、単に地方的な存在にとどまらなかった。大正7年には貴族院議員に当選し、また2代哲平の時、大正11年には東京にも営業の拠点を築くなど彼の名は全国的にも知られる存在となるが、大正15年に相馬の番頭を名乗る男が東京、名古屋等の銀行や会社を舞台に10数万円をだましとるという事件が起きている(大正15年6月3日付「函新」)。これも相馬の信用の高さを物語るものであった。日銀は函館を金貸の都会という世評があると紹介しているが、市中銀行は危険負担を避けて漁業方面への資金需要に積極的に対応しないために、市中の金貸業はその限界を補完し、地域の経済活動に貢献した。相馬は、その典型的な存在であったといえよう。彼はまた百十三銀行と函館貯蓄銀行の頭取を兼ねており、市中金融と銀行業界とを掌握した金融界の中心的な存在であった。とりわけ函館貯蓄銀行は「相馬銀行」とまでいわれた。
 一方、4位の小熊幸一郎の場合は漁業家の典型な事例ということができる。彼はこの時点では小熊商店の店主という立場であるが、大正5年の例でいうと、商店部(海産物委託販売)、漁業部(漁業直営・樺太、露領)、漁業出資部(漁業仕込・樺太、露領、択捉)、船舶部、財産部(土地建物)、倉庫部、合資部(金銭貸付)、金利決算部(有価証券)の8部門に事業を区分している。彼の場合は各部門に投資する配分は漁業の比重が非常に高く、また船舶の転売により大きな利益を出している。ちなみに、同年の営業成績をみると各部をあわせた利益金は43万円に及び、このほかに船舶売却益で100万円となっている(小熊家文書・大正5年「日誌」)。また資産は6年1月時点で動産不動産は23万円、株式18万円、貸付・出資金13万円、船舶360万円その他合わせて533万円にも上っている。これで分かるとおり船舶部分が最大のものである。なお株式所有は地元のものはなく大阪商船の100株をはじめ満鉄、大日本化学など上場された大手に限られている(同前・自明治38年「貸借対照帳」)。
 小熊は当初は海産物委託販売から出発し、日露戦争の勃発寸前の状況のなかで樺太の漁業権利を獲得した。戦後に南樺太が領有化されると漁場の優先権が認められ、西海岸3個所、東海岸6個所の漁場で本格的な漁業を展開することになった。樺太は豊漁が続き、さらに露領へも漁業経営を展開した。また早くから海運にも着目し大型汽船の投資により海運好況にも乗り大船主の面も合わせ持った。漁業仕込みも比較的早く取り組み、樺太漁場へのかかわりも函館の樺太漁業家への仕込みを行っていたことが有利に働いたと見ることができる。
新興資産家 左から小熊幸一郎、日下部久太郎(『開道五十年記念 北海道』)
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