通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実
第1節 市制の開始
3 湯川町の合併と市城の拡大

大字亀田村の市街化

湯の川温泉街の発達と上水道問題

温泉郷の問題

合併条件の提示

函館市と湯川町の合併

函館市と湯川町の合併   P249−P250

表2−10 湯川町の字名と戸数(昭和11年10月現在)
旧大字
字名
戸数
旧大字
字名
戸数
旧大字
字名
戸数
下湯川村 湯浜町
駒場町
鮫川町
深掘町
湯倉町
湯川町
榎本町
花園町
戸倉町
上野町
日吉町
滝沢町
高丘町
見晴町
鈴蘭丘
寅沢
57
150
147
47
160
425
82
12
133
11
35
30
12
20
7
181
1,509
上湯川村 上湯川
旭岡
銅山
鱒川
三森
80
15
3
40
29
167
亀尾村 米原
亀尾
庵原
東畑
鉄山
蛾眉野
紅葉山


総計
29
60
16
37
22
37
21
222
1,898
『函館市史昭和資料集』第4集「湯川沿革史」により作成
参考)「字湯浜町」のように、「町」が付いた字は、昭和15年4月1日より字がとれて単に「○○町」と変更になった(昭和15年3月13日北海道庁告示第300号)
 昭和14年4月1日、函館市と湯川町の合併が施行された。そのころの湯川町の様子は、表2−10のとおりである。湯川町役場は函館市役所湯川出張所となり、新築されることになった(翌15年完成)。そして合併に尽力した辻松新左衛門町長がそのまま出張所長となった。
 この日の新聞はこの合併を次のように報じた。「地域の飛躍十三倍大」、競馬場、ゴルフ場、野球場、スキー場などを含んで市城が飛躍的に拡大、「大函館建設の巨歩」を印すことになった。函館市の人口は湯川町の1万21人を加えて23万884人となり、全国13位から長崎市を抜いて12位となった。札幌市は18位、小樽市は27位であった(4月1日付「函日」)。
 新函館市が第一番に着手したのは水道配水管敷設工事で、4月に着手、7月までにはほぼ予定の工事を終えたと記されている(「湯川温泉ドライアイス製造経過」『続函館市史資料集』第6号)。
 なお、合併に至るまでの湯川町の略歴(表2−11)を掲げておく。
表2−11 湯川町の略歴
内容
寛文9
(1669)
この年、蝦夷地を踏査した弘前藩士は、「湯の川 小川有 家八軒」と 記している(「津軽一統志」巻十『新北海道史』第七巻史料一)。
天明5
(1785)
徳川幕府の蝦夷地調査によれば、湯川村は上下2村で、上湯川村が戸数 30足らず人口120余人、下湯川村が戸数50足らず人口200余人であった(「蝦夷拾遺」)。
明治1
(1868)
箱館奉行から明治新政府への引継書類の「村名帳」に、上下湯川村の名 がみられる。
明治2
開拓使が設置されて北海道に国郡制が敷かれると、上下湯川村は渡島国亀田郡所属となる。
12
北海道にも適用された郡区町村編制法により、亀田上磯郡役所ができ、その下に下湯川村と上湯川村を所管する下湯川村戸長役場が設けられた。
16
上湯川村のうち、元鷲巣村[現函飯市高松町付近]の区域と下湯川村に属していた根崎村が銭亀沢戸長役場所管となり、亀尾村が下湯川村戸長役場所管となった。
18
石川藤助が高温の湯脈を掘り当てる(翌年浴場開業)
30
郡区制が廃止されて支庁制が導入され、亀田支庁の所管となる(戸長役場はそのまま)。
32
改正北海道区制の施行により、亀田支庁は函館支庁と改称された。
35
北海道二級町村制の改正がなされ、下湯川村、上湯川、亀尾村を合併した湯川村ができた(旧村名は大字となった)。
戸数および人口
大字名 戸数 人口
下湯川 253 1,343
上湯川 124 665
亀尾 213 1,036
計 590 3,044
大正12
(1923)
一級町村制の村となった。
昭和11
(1936)
町制が施行され、大字を廃止し小字を整理して、28の字とした。
戸数および人口 1,858戸、9,595人
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