通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 勤務評定反対闘争 |
勤務評定反対闘争 P552−P556 冒頭でも述べたように、高度成長期を特徴づける保守と革新の対立が、教育現場にも大きな波紋を投じることとなった。その対立を象徴するような出来事が、いくつもあげられるなかで、教員の勤務評定(以下、勤評)を巡る対立と闘争は、関係団体によって、「歴史的」闘争と評されている。以下、北海道および函館における勤評反対闘争の跡をたどることとする。この問題の発端は、財政赤字がかさみ、教職員の定期昇給にも差し障りがでるようになった愛媛県が、昭和31年11月に、地方教育行政法第46条の規定を根拠に、勤評を実施して昇給昇格をおこなうことを決定したことにあった。県教職員組合の反対、小・中・高等学校の校長会の勤評拒否決定のなかで、愛媛県は、翌32年3月、勤評による人事異動、昇給ストップなどを実施し、同時に反対勢力に対する行政処分をおこなった。 こうした動きに対し、日本教職員組合(以下、日教組)は愛媛県教職員組合の反対闘争支援を決定、勤評を巡る対立が、全国的な闘争に発展していくこととなる。 北海道でも、いち早く、反対闘争の口火が切られていた。文部大臣の、同年の全国市町村教育委員会連合会総会での勤評早期実施の要望に続いて、2月7日、北教組は勤評阻止に全力をあげることを決議し、函館でも、4月22日、北教組函館支部が、新川小学校に1300人の組合員を集める反対集会を開催している。その際、市教委教育長に対し、全道都市教育長総会において、道教委に勤評を実施しないよう申し入れてほしい、との要望を伝えている。また、市教委に勤評反対の決断を求めていた。 文部省の一貫した勤評促進の方針の下で、昭和32年後半以降、勤評実施の動きは、山梨、福島、新潟、長崎、岐阜などの諸県に拡大していった。こうした文部省・都道府県教育委員会の動きに対応する教員組合などの動きは、中央における日教組対文部省の交渉、都道府県段階の教員組合と教育委員会の交渉、そして都市における教員組合支部と教育委員会との交渉が相呼応して実施されていった。 32年末には、文部省は、全国の教育長、教育委員長、校長協議会に対し勤評実施の働きかけを展開し、勤評実施方針の堅持を示し、これに対する日教組などの側には、総評(日本労働組合総評議会)、官公労(日本官公庁労働組合協議会)、地公労(地方公務員労働組合共闘会議)などが、秋季年末闘争から春季闘争にかけての重要な闘争の柱として、勤評反対闘争全面支援を決定し 、事態は、保守と革新の全面対決の様相を濃くしていった。 一方、勤評闘争の発端となった愛媛県では、県議会議長の斡旋案を双方が受け入れ、勤評闘争休戦ともいうべき、終結をみている。諮問機関の設置、審議結果による勤務評定要領の立案・実施、当該紛争に関する処分をおこなわないことなどが終結の文書に盛られていた(北海道教職員組合『北教組史』第3集)。 かねて、文部省との連携のもとで、勤務評定基準案の作成に取り組んでいた全国教育長協議会第3部会は、昭和32年11月28日、基準案を、全国教育長協議会に提出し、決定をみることとなった。このことは、勤評の全国実施が迫ったことを意味していた。事実、和歌山、福島、秋田、奈良、岐阜などの諸県で、勤評実施の方針が明らかにされていった。こうした事態を受けて、日教組は、12月22日、臨時大会を開き、闘争方針を検討し、非常事態宣言を決議した。なお、この宣言は、翌33年2月7日開催の北教組中央委員会で確認されている。 その間、北海道の勤評反対の動きも、次第に各団体に広がっていった。32年11月30日、全道小学校長会理事会は、全国教育長協議会の勤評試案の実施には反対であることを決議し、全道中学校長会理事会も、12月13日、勤評反対の態度決定をおこなっている。 昭和33年に入ると、勤評問題を巡る対立は、いよいよ熾烈になっていく。日教組は、2月8日に「教育危機突破大会」を全国的に組織し、北教組も呼応して、支部ごとの大会を指令している。函館でも、同日、北教組函館支部が新川小学校を会場に大会を開き、反対運動を強化していった。 同年7月には、全国のほとんどの都府県で、勤務評定規則が制定され、残るのは北海道を含む7府県のみ、という状況になっている。函館では、7月10日、北教組函館支部がほかの労働組合の支援を得て抗議行動を展開、教育長に対し、勤評反対の意志表明を求めていた。また、7月17日に開催された全道中学校長会函館大会で、勤評反対が表明されている。
教職員の勤務評定は、教育上慎重に考慮しなければならない困難な問題を含んでいるので、当委員会としては、現在あらゆる角度からこれを検討しているのであるが、勤務評定が職員間の明朗な気風を害い、身分給与の不安を醸成し学校運営に暗影を投ずることのないように配慮されなければならないことは勿論、更には、これより教師としての日常の教育活動の意欲をたかめ、教育を前進せしめるに役立つようなものをとの観点に立ち、かかる案を見出すことが可能であるかどうかを、本道の特殊性をも考慮しつつ、期間をおしまず検討をつづけてきたのであるが、今後は更に、混乱を避け、民主的に対処するため、期間をかけて検討せよとの世論をも尊重し、市町村教育委員会、関係諸団体とも十分なる話し合いを重ねることは勿論、学識経験者等ひろく各方面の意見をも聞き、結論に到達すべきものと考えている次第であって、これが結論に達するには、なお相当長い時日を要する現状であるという事情御了承を得たく、……(前掲『北教組史』)。 このような経緯で一応の結論に達した勤評闘争に対し、北教組は、次のように「成果と反省」を集約し、記録して残している。道教委をして「勤評を実施しない」という確約を得ることができなかったが少なくとも政府自民党の企図する勤評即時実施の方針を大幅に後退させた地方闘争の成果を認めることができた。また「勤評の本質把握は組合と同一である」「勤評は困難な問題を含んでいる」「白紙の立場で関係諸団体より意見を求める」「相当長い時間をかけて意見を聞き、一方的に打切ることはしない」という回答を獲得したことはすでに政府の方針がくずれはじめていることを立証している(同前)。 以上のような、運動の評価がなされているが、さらに続けて、「本道における勤評反対の闘いは約二年間にわたって集中的に進められた。その後、全国の府県は次々規則の制定を許し、ついに本道と京都のみが規則未成定のまま文部省の行政指導をはね返すことができた」と評価されている。勤評反対闘争は、この段階では、全国の動向を見据え、先制の反対運動を展開した北教組の主導で事態が推移した印象が強いが、道教委の慎重な対応も注目されるところである。 |
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