通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 昭和30年代の函館の社会相 |
昭和30年代の函館の社会相 P523−P526 昭和30年代は、「もはや戦後ではない」という政府の誇大な宣伝文句で始まった(昭和31年7月発表の『経済白書』)。食糧問題は克服され、消費資材も多様化、「技術革新」への投資は活発で、鉄鋼、石油化学などの分野で大規模工場の建設が進んでいく。世論も、この文句を肯定的に受け止めていた。庶民生活の場に家庭電気器具が多様に登場し始めたことは、日本経済の高度成長の具体的な現れであった。
もっともこの頃はテレビの普及で、新聞や雑誌を読む時間が減ったわけでもなく、減ったのは映画館で映画を観る時間、ラジオを聴く時間くらいで、家族団らんの時間が増えた、といわれたり、昭和32年から34年の調査では、家庭でテレビをよくみる子どもたちは理科の成績が良いということがわかった、とされたりしていた(日本放送協会編『日本放送史』下)。 しかし、間もなくNHKが暴力番組追放声明を出すような状況となり、昭和35年6月、この声明に民間放送テレビの各局のうちから同調する動きもみられた。しかし、ギャングものなどが自粛された反面で、お色気番組や″よろめき″ドラマが商業放送番組に一斉に登場してくるという様子もみられるようになり(同前)、テレビ番組の問題点も種々取りあげられざるを得なくなってくるのである。 昭和40年代にもなると、テレビの影響力の大きさをみせつけられる状況も多くなってくる。昭和48年、函館を舞台としたNHKの連続ドラマ「北の家族」が全国に放映されると、この年、函館への観光客入込数が急増したのである。史上最高の298万人を記録し(昭和48年6月27日付け「道新」)、「北の家族」さまさまであったと報道されたのである(昭和49年7月18日付け「道新」、第7編コラム32参照)。 昭和30年代の函館の「高度経済成長」を象徴するものに函館空港の開港があった。函館空港は、昭和36年4月に函館から札幌間、函館から(仙台経由)東京間の空路開設で運用が始まった。開設当初の空港では、針金を張っただけの低い境界柵をこえて滑走路へ入り込んで遊ぶ子どもたちや、近道に滑走路を横断して行く農家の人たちがいたりする有様だったという(函館空港ビルデング株式会社『未来への飛翔』、昭和42年6月13日付け「朝日」)。危険きわまりないが、のどかにみえるローカル空港だった。しかし昭和40年代になって滑走路の延長によりジェット機が発着するようになると、騒音公害が大きな問題となっていく(第7編コラム44参照)。 このように表向きは時代の波に歩調を合わせているかにみえるが、内実には大きな矛盾があった。それは「斜陽都市」が抱える慢性的な労働人口過剰問題であった。 北海道の行政施策は、長く未開発地域の開発と移民政策を中心におこなわれ、産業政策ではなかったために、古くから開けていた道南地域の住民は「置き去りにされた」というような認識を持っていた。高度経済成長期、地元では生計を維持できる仕事がないために、とくに檜山支庁管内などでは、出稼ぎに出ることを余儀なくされた人が少なくなかった。昭和32年に北海道総合開発企画本部開発調査課がまとめた『道南地域総合開発調査』(以下『開発調査』とする)では、昭和30年には道南地域の3万人に及ぶと推定される出稼ぎ者が他地域で働いているとみられている。同書によれば、この地域の労働力人口総数は33万5841人であるから、1割弱の人たちが地元では生活が成り立たない状況に陥っていたといえよう。
労働者総数に占める臨時労働者の雇用率も、表2−37のように主要都市のなかでは最高となっている。渡島・檜山管内で唯一の都市であった函館には仕事を求めて、近郊の農漁村から一定程度の労働人口の流入があったと推測されるが、函館もそれらの人びとに満足な仕事を与えられる状態ではなかったということである。この時期には日本全国で集団就職する若者たちがみられたが、道南地域からも海峡をこえて、本州の都市に向かう中学生たちが少なくなかったのである(第7編コラム23参照)。 |
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