通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第6節 社会問題と労働運動の展開
1 高度経済成長と社会問題

昭和30年代の函館の社会相

経済成長と公害

国鉄の解体・日魯漁業、函館ドックの縮小と整理

経済成長と公害   P526−P529

 昭和40年代から50年代にかけて函館市は人口増加で示される市勢拡大のピークの時期を迎える。昭和48年、亀田市との合併で市域を拡大し、人口は30万人をこえた。昭和55年、32万余という人口増勢のピークを示した。
 この時期の市勢拡大は、全国的な経済成長の動きを背景にしたもので、市内でも工業地帯の拡大などが顕著となり、そして反面で公害問題が顕在化してくるという問題をも含んでいたのだった。
 昭和37年10月に着工し、39年10月にほぼ完成した上磯町七重浜にまたがる函館北部の港地区埋立地は、臨海工業地帯造成を目的とした市の事業であった。当初、用地の売れゆきは不調で、市議会で問題とされたこともあったが、昭和42年後半からは売れゆきが好調に転じ、43年末までに、30万8158平方メートル(このうち約6割は上磯町に属する)は売却済み、一部分交渉中という状態となった。さらに10社ほどの用地斡旋を求める依頼がきて、市は、内陸部の民有地を探して紹介に努めるという状況であった。用地を取得した企業は、ただちに工場建設に取りかかるところがほとんどで、水産加工、機械工業、造船、石油関係などの工場、施設が建ち並んで「市の計画通り一大工業地帯が現出」する様相をみせていたのである(昭和43年11月2日付け「北タイ」、第2章第3節参照)。
 臨海工業地帯造成の計画は、さらに拡大されようとしていた。昭和45年4月に確定した函館圏総合開発基本計画のなかで、510万平方メートルの埋め立てによる工業用地の造成が示された。函館湾の西岸、上磯漁港から矢不来岬にかけての遠浅の海を埋め立てる計画である。この地域は、全域、上磯町の町域内であるが、「埋め立てはあくまで市の事業としてすすめる方針で、市は港湾管理者として当事者能力がある」という考え方で進められようとしていた(昭和45年12月3日付け「道新」)。
 問題は、地元の漁業者の了解を得られるか、という点にあった。この上磯町前浜一帯では昭和20年代からの増養殖事業が軌道に乗ったところであった。ホッキ貝、ホタテ貝、ワカメなどについて増養殖は成功しつつあり、上磯町漁業協同組合の水揚げは、昭和46年度で1805トン、3億2240万円(1戸当たり235万円)というところまで伸びてきていた(昭和47年9月11日付け「道新」)。
 上磯町漁業協同組合の総会は、圧倒的多数で埋め立て絶対反対を決議した。漁業権のすべてを失うことに対する補償額は当時、全国に例のない高額33億円が示されているなかでの絶対反対であった。上磯町地区労や町内会にも反対運動は拡大した。近隣地域の茂辺地漁協などばかりでなく、38の漁協で構成する渡島漁協も管内一帯での反対運動に取り組んだ。また函館市民の間でも、公害問題への関心は高く、函館地評(函館地区労働組合評議会)などの労働団体や婦人団体などの反対運動への取り組みが目立った。このような流れのなか、函館市、上磯町は、昭和47年9月の初めに「実施計画を白紙に戻す」ことを決定することとなったのである(第2章第2節参照)。
 昭和30年代以降、高度経済成長にともなって「日本は現代世界の公害の実験場となったかのごとくであった」という(庄司光・宮本憲一『日本の公害』)。巨大な工場から出る有害物資が、水俣病やイタイイタイ病、ぜんそくなどを引き起こし、また環境を破壊した。函館でも、矢不来臨海工業地帯造成計画の挫折の重要な要因のひとつとなるほどに、公害問題への関心は高まっていたのである。したがってそれは函館市の重要な課題ともなっていた。昭和46年に「北海道新聞」が掲載した「北海道公害一覧」では(1月8日付け)、函館市については、次のような問題があげられていた。

(大気汚染・悪臭)
 化学工場周辺の北浜町、追分町の住民が排気ガスにより被害を受けている。昭和45年6月の保健所の健康診断では、追分町住民70人中40人が、気管支炎、肺機能の低下がみられたりしていた。飼料工場、水産加工場周辺では、風下の2キロメートルほどの範囲に硫化水素、アンモニアなどの悪臭被害がみられる。冷凍技術の発達で、操業が一年中続けられ、悪臭被害も年間を通じて問題となるようになった(第2章第3節参照)。
(騒音)
 交通機関による騒音が目立って、昭和44年10月の調査で76ホン程度の騒音が「常在」している。
(水質汚濁)
 湯川温泉における使用湯水の不完全処理のため、川水、海域の汚濁がみられる。

 昭和46年6月になると市も市議会での市長市政執行方針で公害問題への取り組みの積極化を打ち出して(昭和46年7月2日付け「道新」)、それまで行政指導で公害防止の実効をあげられるとしていた考え方を改めた。行政指導とは、法律上の根拠に基づくことなく行政官庁がおこなう指導のことで、これに従うかどうかは、相手の考え方次第でどうなるのか不明確なものであり、行政上の責任も明瞭でないという問題を生じやすいのである。市長は公害防止条例の制定を市政執行方針のうちで明らかにしたのだった。
 昭和48年4月には、函館市公害防止条例が施行された。企業に対する市長の権限を大きく定める考え方がとられ、独自の規制基準を定め、改善の勧告をおこない、状況により操業の一時停止を命ずることができる、ということになったのである。この条例に基づく第1回の年次報告書『函館市の公害の現況と対策』が昭和49年9月に発表された。工業地域における硫黄酸化物濃度が環境基準(0.04ppm)をこえた日は、11日であったこと、水質汚濁が松倉川支流の鮫川でとくにひどく進み、BOD(生活化学的酸素要求量)が12ppmをこえていたこと(41年では7ppmであった)。騒音は、市中心部や空港近辺で基準をこえている所があり、湯川地区では大きくオーバーして問題があることなどがふれられていた。深刻な公害現象というほどではないが、環境汚染が進んできているという見方が示され、監視測定機能の強化、大気、水質の汚染にとくに注意する、企業の社会的責任の重視、公害防止資金の活用などの対策も示されていた(昭和49年9月12日付け「朝日」)。
 このような対策が功を奏したとみられ、 昭和50年代を通じての函館市の状況は、「全般的に汚染状態は軽い」という診断であったが、昭和55年から62年まで、銭亀沢地区の農用地は北海道の土壌汚染防止法により「銅による農用地土壌汚染対策地域」に指定され、対策工事がおこなわれた(各年版『函館市の公害の現況と対策』、昭和62年2月『函館地域公害防止推進計画』)。
 なお、自動車の急増も、交通騒音公害や車粉問題など様々な影響をもたらした。交通事故も深刻な問題であり、とくに児童・生徒を輪禍から守ろうといろいろな対策がとられている(第7編コラム47参照)。
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