通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 テレビとテーブル |
テレビとテーブル P518−P519 聞き取りで興味深かったのは、昭和34(1959)年の「皇太子御成婚パレード」に際して、テレビにどのように対応したのかをだれでもよく覚えていることである。この行事に際してテレビを買って見たという話が多かったが、知人の家でみた(昭和2年生まれ・弁天町)とか、近所でお金を払ってみていた(昭和6年生まれ・船見町)とか、いろいろとおもしろい話が聞けた。これは函館に限らずほぼ全国的にみられる現象のはずであり、この行事をきっかけとして急速にテレビが日本の家庭に普及していったことがうかがわれる。なお、テレビを家庭内でどのようにしてみたのかもおもしろい問題で、行儀が悪いから食事の時には見なかったという話(昭和5年生まれ・神山)と、家族で一緒に食事をしながら見たという話(大正11年生まれ・赤川町)があった。この時期以後、家族のあり方が大きく変わっていくことを考えると、家庭内でテレビにどう対応したのかは重要な問題であるように思われる。テレビの普及は住宅内の家族団らんの意味を変え、場合によっては家族の意味までも変えたかもしれないのである。とくに住宅内のどこにテレビを置いていたかをみると、当初は家族以外に広く開かれていた客間のような場所から、家族のみの一家団らんの中心になり、やがて個別の場所に移るという経過が浮かび上がってくるのである。 函館で「テーブル」ないし、ややなまって「テブル」と呼ばれる卓袱台(ちゃぶだい)も、この時期の家族関係を考える重要な手がかりである。全国的にみると銘々膳ないし箱膳で食べていたのが、同じ卓袱台で食べるように変化する傾向が共通にみられる。この動きの背後には、使用人なども含んだ家族内における人間関係が相対的に対等な関係になっていく過程があるのであるが、その時期は地域によってかなりの違いがある。函館の場合、聞き取りの限りでは第2次世界大戦前の段階でテーブルがかなり普及しており、戦後にはほとんどの家でテーブルで家族一緒に食べていたことがわかる。なお、注目すべきは、そう大きくはないテーブルに、5人、10人と一緒に茶碗を並べて食べていた(昭和6年生まれ・船見町)ことがわかり、食事の内容も質素であったことをうかがわせる。 |
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