通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 緑の島と湾岸道路 |
緑の島と湾岸道路 P474−P475 緑の島が北海道開発局の工事施工計画に載ったのは、昭和55年度から60年度の第6次港湾整備5か年計画である。この8ヘクタールの島は、実は、中央埠頭、北埠頭、万代埠頭造成に伴う港内浚渫の結果出る土砂で造成された。48年、矢不来工業港計画が幻と化した最大の理由が公害問題であり、同年の石油ショック後、海洋汚染が公害として、厳しく糾弾され始めた時期である。それまでの土砂は、函館開発建設部函館港湾建設事務所編『歴代所長座談会』には、「五二年度までには函館港内の浚渫土砂その他は、すべて函館港の入口か津軽海峡に沖捨て投棄されていました。これが五二年の後半から五三年の三月までに、青森県下北半島の全部、すなわち五町村一二単協(漁業協同組合)から総ぐるみで沖捨て反対の申し入れがありました」と記されている。問題は青森県の国会議員の国会報告にまで発展したので、ついに、函館湾に土砂捨置場を作ることに落ち着き、現在の大町地先海面8クタールに決まった。56年に着工し平成3(1991)年に完成した。土量は68万立方メートル、埋立面積が7万9668平方メートル、総経費は65億円であった。緑の島という名称をつけたのは、定かではないが、函館市港湾部内の協議中に出たもののようで、平成3年頃という(市港湾部)。 一方、西埠頭−中央埠頭−万代埠頭−北埠頭と4つの埠頭が並立することになり、ここから生まれたのが、これらの埠頭をつなぐ産業道路の新たな建設であった。湾岸道路は、第6次港湾整備5か年計画で取り上げられ、最初に、中央埠頭をまたぐ870メートルの建設がおこなわれた。函館開発建設部の計画では、西の弁天町地先湾岸から上磯町七重浜地先海岸までの8.2キロメートルの湾岸道路となっている。ただし北海道開発局函館開発建設部『郷思 函館港港湾建設史』では、西端を豊川町地先(豊川埠頭)とし、このうち豊川地区から万代地区に至る約2キロメートルを高架橋、そのほかは既存の道路を拡幅すると記されている。この高架橋は橋脚35基、橋台2基となっている。幅員は基本的には4車線、暫定的には2車線で海側に歩道を作ることになっている。この構想は、昭和52年の函館圏総合計画で臨港道路構想として示され、58年に工事が開始された。現在に至る続行中の計画で、平成9年3月には、湾岸大橋と呼ばれる高架橋部分が開通している。 なお、緑の島、湾岸道路建設、諸改修工事を含めた北海道開発局による函館港港湾建設費は表2−31のとおりである。昭和27年から平成2年に至る38年間の総計が424億円余ということになる。 昭和63年3月、青函連絡船が廃止されて、若松、有川両埠頭が国鉄専用埠頭でなくなり、この両埠頭を含む全函館港が、新たに出発することになる。
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