通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 市勢振興第1次計画書 |
市勢振興第1次計画書 P147−P150
ところで敗戦1年後の日に「北海道新聞」は、郷土再建へ向けて「函館の現況を展望」をしているが、第1番目の項目が函館再建の基本をなす「都市計画」で、続いて政治、経済、文化、社会、輸送がまとめられていた(昭和21年8月15日付け「道新」)。坂本市政を受け継いだ宗藤市政も身近な食糧確保に奔走しながら「都市計画」には力を入れていた。坂本市政の新都市計画の骨子は、(1)鉄道旅客桟橋の有川波止場移転、(2)亀田村、上磯町合併を前提、(3)市中央部を元七一部隊付近(現千代台公園)とし、同地域に市庁舎を建設、(4)桟橋駅、中央部に環状交通路の建設、であった(昭和22年2月16日付け「道新」)。
翌25年、この出発にあたって宗藤市長は、「ことしこそ市政整備再建の第一年である」と語っていたが、「ことしの市政を顧るならば不振のうちにその一年を終わつたといわなければならない」と評していた(昭和25年12月28日付け「道新」)。 昭和二十六年九月十日、宗藤市長は「函館市勢振興審議会規則」を公布し、「市勢振興審議会」を設けた。二十六日に宗藤会長から副会長に高木直行、相馬雄二を、委員には助役以下一九名の委員と六名の顧問が委嘱された。審議会は「市是」を定め、当面第一次五か年計画を樹立して、昭和十四、五年ころと同等の経済力を挽回することを目途とする市勢振興計画を練った。『市勢振興第一次計画書』の「凡例」にあるとおり、産業経済面は現実本位に計画即行を建前とし、二十七年三月二十八日の最終総会で原案を承認した。「港湾都市の理想を実現し、もって産業と文化の興隆を期する」との「市是」をうたった『市勢振興第一次計画書』は二一〇ページ余に及び、総論に始まる各章は港湾、漁業、工・興業、商業、農業となっており、産業振興の五か年計画に力が注がれた。市民への公表は半年後の十月で、「ユートピアへの雄大な構想 究極目的は文化都市創造」と紹介され、「七重浜貯木場の設置、農漁業の科学化など具体的な新機軸」と位置づけられているが(昭和二十七年十月十八日付け「道新」)、現実本位という視点からか「住みよい都市建設」では、「人口は二十五万人程度を理想とし田園都市創設を最適とし、このためには公営住宅による指導、会社工場の社宅建設推進を必要としている」と実人口に近い人口が設定されている(第二章第二節参照)。 ただ、宗藤市長は、昭和三十年四月の選挙で吉谷一次に破れ、計画の途中で市長の椅子を降りている。 |
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